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七味をかける

日がなごろごろ

フリーペーパーを作りたい


フリーペーパーにずっと憧れている。


というか雑誌とか、なにかしら、媒体、メディアというか、そういうもの。そういうものを作ってみたいな、とずっと思っていた。
昔はそれを漫画という形でアウトプットしていて、中高と、部活で下手の横好きではあるが本を作っていた。
思えば小学生の頃だって(しかも自分で製本して)作っていた。



ので、やっと作りました。

七味をかける、フリーペーパー支部。
ファミマ、ローソン、サンクスなどでネットワークプリントできます。マルチコピー〜〜〜〜!
番号は5TUUDDL79Gだよ。A4サイズ、モノクロで印刷してね、20円だよ。
初回テーマは食べたいけどギリギリまで寝てたいよね、という思いを込めた、「朝食」です。


もうちょっと面白い文章かきたいな〜〜!
面白いことしたい〜〜〜〜!
創作欲がやっと出てきたので、頑張りたいですね。うむ。今後も続けていきたいです。

飛行機に乗る明け方の憂い


香港に行く。




眠い。



安い飛行機をとると遅延で十二時間待つはめになり憂いは台無しになる

小松菜奈ってかわいすぎるんだ


ネバヤンの「お別れの歌」、聞いた??PV見た???小松菜奈サイコーじゃない!?

そもそもにしてネバヤンが最高であるんだけれどもネバヤンプラス小松菜奈というなんだ私にとって得しかない組み合わせは、と思うわけです。

「渇き」の退廃的な、それでいながら小悪魔的な、小松菜奈で恋に落ちてDVDを何度も借り結果延滞したのはいい思い出ですが、最近の「溺れるナイフ」のツンギレデレ小松菜奈もまた良かったですよね、椿をくわえるシーンなんか、なんだ、もう、かわいいし、美しいし、小松菜奈のまつげになりたい。という旨の発言をしたら友達に「おこがましい」と言われたので近づくのもはばかられる存在なのかもしれない、小松菜奈は。語彙力が思わず死ぬ。

というわけでネバヤンの「お別れの歌」についてなんですけど、
小松菜奈の彼氏になりたすぎる人生だったと言わざるをえないですね、ええ。
ふざけあって蹴られたいし、んふふって笑われたいし、ビールをくーって飲んでる彼女をみて「おっさんくさいよ」って言いたいし「うるさい」って言われたいし、浜辺ではしゃいでる彼女に目を細めたいし、「なに撮ってんだよバカ」って言われたいし、寝顔を見たいし、いっぱい喧嘩してそれでも仲直りして一緒にいて、強がりも見透かされて、君のことは僕が一番分かってるし、僕のことは君が一番分かってるって思ってて、だけれどもそれはある日突然終わりが来て、
一人きりの部屋で動画見直してああこんなことあったなって、
言えなかったことがたくさんあったなって、
ああ君はこのぬいぐるみが好きだったなって、
気付いたら頬を涙が、


小松菜奈サイコー〜〜〜〜〜〜!


ついに耐えられなくなってブログにかいてしまった、庭には犬を走らせよう…


危うく投影しすぎて精神が崩壊するところだった、冷静になれ。


それにしてもネバヤン叫んでるなあ、これ。

二次創作に原作は必要なのか

 
自己満足レポートの供養。



物語は、聞き手にとっての日常に近い、つまりリアリティがあればあるほどその話を真実らしく感じる(場合によってはノンフィクションと錯覚)。逆に非日常的なことが起こっている等、リアリティがないものはフィクションであると感じるのだ。
 二次創作は、漫画やゲームなどの原作の設定を用いて別のものを創作する行為を指す。なぜ新しい物語を創作しているのに、原作と設定が同じものであると認識できるのだろうか?本稿ではそれについて分析する。

 そもそも物語・ストーリーの大枠は以下の図のような設定で作られている。役割は大まかに4つである。

物語はときおり読者に錯覚を起こさせる。錯覚が起きないパターンもあるが、錯覚が起きる場合はたとえば空間においての歪みが生じるときである。たとえば空間の錯覚には①~③のいずれか(または複数)が知らない場合と、④が誤読する場合が考えられる。よって錯覚のパターンも大きく4つにわけられる。

① 登場人物が知らないもの
② 語り手が知らないもの
③ 作者が知らないもの
④ 読者が誤読するもの

 二次創作は作者の描いた物語(原作)を読者がその設定と登場人物を用いて新たな物語を作ることを指すため、パターンとしては③の作者(この場合は原作者)が知らないパターンとして考えることが出来る(場合によっては①や②も併用されるケースがあるがここでは割愛する)。
 読者は(この場合二次創作の読者)は二次創作を原作の延長(新しいエピソード)として受け取ることが出来る。なぜなら、二次創作では原作の設定と登場人物たちが引き継がれており、そこにリアリティがあるためである。

リレー小説なども③の作者が知らないパターンに分類することが出来るが、二次創作と違う点は、二次創作においては時間の錯覚(錯時)も生じているという点である。一般にリレー小説は物語が時系列に沿って展開され、リアルとの時間の乖離が少ない。しかしながら二次創作は必ずしもそうではない。二次創作の作者はあらゆる時間の点を抜き出し、読者はそれを平然と受け入れる。なぜだろうか?
 まずは二次創作の時系列にはどのようなものがあるかを考察したい。

① 起点が原作よりも過去にさかのぼるもの
(回想・描かれていない過去の創作等)
② 起点が原作中・はざまにあるもの
(抜け落ちている場面・日常風景等)
③ 起点が原作よりも未来・先にあるもの
(設定を用いた未来の仮定)
④ 物語と並行した時系列
(語り手の別視点、あるいは再現)
パラレルワールド
(分岐ルート、あるいはパロディ)

このようなパターンに分類できる。⑤には結果的に分岐してしまったというパターンも考えられる。原作が進行中の作品であった場合、①~④で二次創作として描いた展開が覆される可能性があるためである。二次創作は二次創作者の解釈によって描かれたものであるため、絶対に原作者のストーリーとは違ってくる(そういう意味では①~④はすべて⑤ともいえる)。だからこそ二次創作なのである。そしてだからこそ「二次創作のストーリーは原作者が知りえない」という空間における錯覚も裏付けられる。
このように二次創作においてはかならずしも原作の続きを描くわけではなく、前述のようなパターンが考えられる。すべての二次創作に共通する目的は「原作の世界観から考察し新たなものを生み出そうとする」という点である。描かれていないことを描こうとするから結果違うものが生じる。
しかしながら前述のように、時系列の如何に関わらず、二次創作を読者は原作の延長・新しいエピソードとして受け入れる。なぜなのだろうか?それは原作という世界からデータを抜き出し、再構築しているからである。原作においての設定や背景は読者の中でシェアされているものである。そのため二次創作を享受したとき、読者は「ああ、この場面だな」と解釈を行い、時系列の錯覚が起こる。既に原作の中で世界観の説明を受けているために、二次創作においてたじろぐことがないのである。
ここで「原作無き二次創作」について言及したい。いまやネットやSNSによって情報は簡単に得られるものになった。それはあらゆる情報に当てはまり、二次創作の原作に関する情報がウィキペディアや、情報検索サービスや、あるいはほかの二次創作から得ることが出来る。前者二つは情報をまとめたものであるが、我々は二次創作という本来原作の後に存在するものからも情報を引き出すことが出来るのだ。これは原作がデータベースとなって、二次創作はシミュラークルとして機能しているというようにも考えられる(あるいはデータベース消費とも説明できる)。
そう考えたとき、二次創作の読者にはたして原作は必要であるのかという疑問が生じる。結局、原作と二次創作をつなぐものは設定や世界観であり、必ずしも原作を把握している必要性はない。加えていえば、たとえその二次創作が原作と異なる点を多く抱えていても、原作らしさ・真実味があれば「○○という原作の二次創作」であるとして受け入れることが出来るのである。


続。
そのうちちゃんとつづきかこう。

ご飯に合うおかずとスマブラX


スマブラにハマっているのでごはんに合うおかずをスマブラのキャラに例えます。メモです。
時代に乗り切れてない人間なのでスマブラXのキャラです。異論は認める。


明太子。辛味と塩味の絶妙のコラボレーション。そのトリッキーでいながら、火力のある、確かな強さ。言うなればリュカ。
いくらあたりがネスだろうか。

そぼろ、ヨッシーかな。なんか素朴な顔してるし。

ポケモントレーナーは漬物。各種漬物を駆使。

コロッケ、カービィ。中身いろいろ。デデデはメンチだよ。

チンジャオロース、やめられねえ止まらねえ。突っ走るだけだぜ!という熱い感じ。フォックス。麻婆茄子がファルコ。レバニラがウルフ。

生姜焼き。完全にパワータイプ。ドンキー。

ふりかけは、かわいいけど強いから、ピクミン&オリマー。いつのまにかなくなってる感じも、ピクミンの気づいたら死んでる感じに似てる。

角煮のそのゴリゴリに重く殴ってくる感じ、ガノンドルフ。

卵はその安定感、固定ファン層、国民的人気、そしてタイマンでも、乱戦でも力を発揮するオールマイティさから、ピカチュウ。黄色いし。

カレー。圧倒的王道。嫌いな人はいない。子供も大好き。マリオ。ハヤシライスが弟。割食ってる感じするしな。おかずじゃねえ?うるせえな!

ごはんですよ、はMr.ゲーム&ウォッチ。黒いし。


お前は何をやってるんだ。
残りのキャラ募集中。

写ルンですが3台目に達した


写ルンですの良さはやはり撮ってからのギャップがあるところだ。

大体において現像する頃には何を撮ったかを忘れがちである故に、何を撮ったっけ、というワクワクがある。そうすると、予想外にうまく撮れていたり、そうでなかったり、どちらにしても楽しみがある。また、本当に失敗していて完全にグレーになってしまっているパターンもある。



思い出せない記憶のようでこれもまた一興、である。


夜の写真はフラッシュを焚くとこんな感じになる。

今はスマホでもそれなりに上手く撮れ、すぐに確認ができる時代だ。それもそれでいい。記録するという面で言えばその方が確実だ。

だからと言ってアナログの良さはあるのだ。
写ルンですはタイムカプセル的だ。



そして彼はなかなか手に入りにくかったりする。コンビニにはあまり置いていない。カメラ屋さんには大体置いている。あと、大きい駅のキオスクなんかには結構置いていたりする。需要があるのだろう。


不自由なものに惹かれることもある。


相変わらず恥ずかしい文章だなあ、まあいいや。


お腹が空いたのでご飯を作ります。

深夜から抜け出せないインスタントラーメンと朝を迎えたコーヒー


不摂生な人間である。

夜更かしの好きな子供だった。年の離れた兄や姉がいたから、という訳ではなくて、単に父が夜型の人間だったことにルーツがある。

末っ子の私を、当時の父はそれはたいそう可愛がっていたように思う。兄と姉が思春期を迎え、唯一親の買い物について行っていたのが、一緒に布団で寝ていたのが、私だったからかもしれない。車でイオン、あ、当時はジャスコ、まで行き、食べたいものを食べさせてくれ(よくフードコートで銀だこを食べた)、なんでも欲しい本は買ってくれた(小学生時代が一番本を読んでいたのではないかとさえ思う、ジャンルは青い鳥文庫とファンタジーもの)。確か兄が「俺にはそんな甘くなかったのに」とちょっと拗ねていた記憶もある。ともかく、父は素直で成績が良く、本をよく読む私のことを贔屓していたのだ。

そんな父は夜にテレビを見るのが好きで、といっても深夜帯にやっているよくあるバラエティではなく、録画しておいた宇宙や遺跡の番組が主力選手だった。よくは理解できていなかったものの、私もそれを楽しんでいた。マヤ文明アステカ文明に興味を惹かれ、自由研究でまとめたことがあるくらいには(一方で母と一緒にビーズで指輪を作ってこれまた提出しているのだからなんだか当時のほうがよっぽど自由であった気がする)。
ちなみに母はというと朝方の人間であるので、すぐ寝てしまっていて、だからもっぱら私と父は二人で起きていたのだった。

それから、父はちょっとふくよかな体型であり(昔はイケメンだったらしい、母の惚気)、だから、というかそれが原因だったのか、夜のテレビタイムのお供になにか軽食でも、ということもしばしばだった。まあ教育には良くないのかもしれないが、私もご相伴に預かることが多かった。

そんな時間が私は大好きであった。夜にいけないこと、「お母さんに内緒のこと」をしている。なんだかそれだけで大人になったようなつもりになったのだ。日付が変わるか変わらないかの時間に、インスタントラーメンを食べる。お母さんのごはんも美味しいけれど、お父さんが作るインスタントラーメンだって、美味しい。

だからか、私は夜食が今でもちょっとだけ特別な気がしている。

父も年をとり、健康に気を使うようになり、一緒に夜食を食べることはなくなった。父と布団で一緒に寝るのはいつの間にやら姉が連れてきて今やうちの一員のロジャー(チワワ)である。
私はというと、相変わらず夜更かしが好きだ。ただ、夜のテレビタイムには録画していたアメトークを見ること。家を抜け出し終電間際の電車に滑り込んだりすること。父は知らないだろう。知っていて知らないふりをしているのかもしれない。

「身長が大きくなったな」と、何度も言われる。いつまでも野菜が嫌いだと思っている。たぶんずっと私は父の前では子供なのだ。



むかしは飲めなかったはずのコーヒーを飲みながら、そんなことを思いました。
徹夜するとおセンチになっちゃってやーね。

おはよう、おやすみなさい。