七味をかける

日がなごろごろ

世田谷ボロ市に行ってきた


わりとなんでも二つ返事でオッケーしてしまう。




「明日〇〇に行こう」と言われても、(どこや??)と思いつつも、その誘った人が好きならばわりと行くかあ、となってしまう。
フットワークが軽いと言えば聞こえはいいけれど、軽い女と言うと完全にダメな方向に聞こえるな。



今日は某オンリーイベントにわたしの三年来のネッ友のオールバックな髪型をしているYさんが「一人で行きたくない…」などと駄々をこねるので一緒に行き、薄くて熱くなる本を買いあさり、そしてそのあとさらばして、ジャミラ似のMくんが「ボロ市に行きたい〜〜」と言うので、国際展示場駅から乗り換えに乗り換え、世田谷ボロ市に行ってきた。





世田谷ボロ市はなんと2017年度で439年目にあたるらしい。
その歴史を遡るのは面倒なのであれだけれど、北条氏政が云々ということらしい。詳しくは調べて(匙を投げる)。

夕方行ったんだけどこの電気の感じ、いいよね。
Yさんに送りつけたら「ヨーロッパの田舎感がある」と申しておりました。




名物は代官餅なんだけど売り切れてました〜〜てへへ〜〜!遅くから行ったからね…


結構人も来ていたし、観光っぽい外国人もいた。子供から大人まで本当にいろんな人がいたな。

あとめっっっちゃ広い。いわゆる蚤の市なんだけれども、広い、広いそして広い。
広いぞ〜〜!(何回言うんだ)




(楽しくてあんまり写真撮らなかった……悔いだ…)


布、古着、着物、レトロなもの、家具、ライト、その場で食べれるもの(シャーピンとかやきとり食べたかったな〜〜甘酒〜〜)、昔のおもちゃ、漬物、野菜、花、靴、湯沸かし器、皿、絵、よくわからん骨董、手作りの何かとか、いろいろ。
安いものから高いものまで、見てるだけで楽しかった。ピンキリ。
出品してる人も様々で、中にはワンカップ片手に商売をしているおじちゃんもいた。
たしかに寒かったからしょうがないと思う。
飲みたい気持ち、分かるぜ。

ほんとさむかった。さむかった。爆暖靴下なる謎のものが売ってたけど、買いたくなる気持ちもわかる。足の指めっちゃ冷える。
防寒って大事だね…



そして、じゃじゃーん。





買いました。
ホッピーの瓶は自分で電気で曲げたというおじちゃんから、寒いね〜〜!と声をかけてくれたファーが豪勢なお姉さんからは謎の表札とかに横にかけるやつを、イスはワンカップのじいちゃんから。
よかろう。


1/15、16とそれから12/15、16で開催してるんだってさ!
楽しいかったから年末か、来年も行きたいな!




お財布がさむい。
こんどは友達の話にうんうんと頷いていたらストリップ劇場に連れてかれるらしい。
わー、たのしみ。


今夜は鍋です、おやすみなさい。

行きつけの店への憧れ


行きつけの店ってカッコ良くない???




画像はイメージです。


大人への憧れというものがあるので(相対的概念であるのでたぶん小さい子から見たら私は大人にあたるのだろうが)、「行きつけの店」というものにもなんとなくイイな、と思っている。


私にとってピアスもそうだったし、コーヒーのブラックもそうだし、タバコも「大人」的なものである。
そうして「行きつけの店」もその記号の一つなのだ。


「行きつけの店」がなぜカッコ良く見えるのかを考えてみると、たぶんその人が確固たる自分を持っているように見えるのではないかと思う。
変ゼミの登場人物である市河さんが「どんなこだわりも突き詰めればイズムになる」と言っていて、読んだ時にまさにそれだー!と得心がいった覚えがある。
おしゃれイズムがおしゃれなのはイズムのある人が出るからではないか(そのまんまやないか)(どういうことやねん)。


ともかく、「行きつけの店」に憧れている。
そしてそれはできるならば「バー」か、「喫茶店」がいい。なんとなく。偏見。パンケーキ専門店ではどうにもそう思えないのはなんでだろう。やっぱ偏見だな。


というわけで喫茶店に行った。この店は二回目。
落ち着いた感じ。静かな店内。良いぞ。良いぞ。
と思ったけれどもコーヒーを飲みすぎるとお腹が痛くなるので、イマイチ決まらないのだった。
次はクロックムッシュが食べたい。
目指せ常連。


背伸びにしか見えないのだろうけれど、背伸びをし始めないと、それに慣れることは永遠にないのではないかと思ったりする。
慣れることと好きは似ていて、例えばよく食べるから好物なのか、好物だからよく食べてしまうのかというのは、ちょっと考えてみると微妙なところだ。
家のご飯が一番好きな味になるのはそういうところにあるのではないか。とか。



ある日「行きつけの店」もしっくりくるタイミングが来る。と、思いたい。

風邪が治らない


病は気からというけれども、正月なにもしていない(観葉植物の水やりしかしていない)のに風邪をひいた。

こたつと布団と食卓の往復ばかりしていたのが原因なのか、自堕落な生活に神が鉄槌を下したようである。ごめんなさい。蟹おいしかったです。すきやきもおいしかったです。

というわけで現在もインザ布団なのであるが、そうなるとSNSサーチャーとして活動してしまう。現代っ子か。同学年の子は頑張ってるなあ私も頑張らなきゃなあ、いやしかし鼻水がとまらないなあ。

鼻水が出る仕組みについて調べている場合ではないのだよ。
録画も見なきゃだし、メールの返信をしなきゃだし、年賀状の返信もしなきゃだし、来週再来週と試験にはいるし…
ごほごほ。
忙しいと思えば全てが忙しくなるので、目の前のことを一つ一つ消化しなければならないのですよ。

ゆるゆるとエンジンをかけたいところであります。
とりあえずお風呂に入らなければ。

だらだらすること選手権ならば優勝の自信がありますぞ。いやしかし、休みとは偉大なり。


とっとと風呂〜〜!
はい、行きます。

名前をつけるという行為


観葉植物を買った。




なんで買ったかというと、完全に衝動のせいだ。
「クリスマスプレゼント買ってねえなあ、なんかいい感じの雑貨屋あんなあ、嬢ちゃん、随分とかわいいじゃねえか!うちの子になるか!?」みたいな感じである。

うちの母も植物がすきで、やたらと育てていて、よくもまあ気力が続くもんだと思っていたのだが、歳を経るとそういうことに興味が湧くのかもしれないと思った。閑話休題

それはそれとして、観葉植物には名前をつけなければならない。ぬいぐるみと観葉植物には名前をつけると相場が決まっている(私の抱き枕のぬいぐるみにはうさ太郎という名が付いている)。

名前をつけると当然愛着が湧く。
あだ名をつけるという行為もそうだが、一気に「内輪感」「自分のもの感」「特別感」が出るのである。言葉には力があるので、そのものの姿をハッキリと映し出すようになるのだ。名は体を表す。

さっきアメトーークを見ていたのだけれど(うちには積み重なった五年分の録画のアメトーークが存在する)、有吉先生が品川さんのことを「おしゃべりクソ野郎」と称した途端に品川さんは「おしゃべりクソ野郎」になったのだと思う。
そして「どうした品川」で「品川さんて韓流みたいな髪型してた!どうかしてた!」となる。

行為にしてもそうだ。
またアメトーークの話になるが、その中でも私は「ひとり暮らし長〜い芸人」が大好きで、この会では「寝室殺し」「酔いどれアマゾン」「フローリングオンザライス」などといった特殊なワードが多用される(詳しくは見てほしい、めっちゃ面白いから)。
「一人暮らしあるある」を必殺技みたいに言うのだ。
要はほとんど言葉のまんまなんだけれども、みんな最初聞いたときは、「えっ!?」と反応する。耳慣れないワードだから。

でもワードを作った途端、それは人の認識下に置かれる特殊なものになるのだ。
理解できるけれども言葉になっていなかったものが言葉になり、それについて理解し、アハ体験というのか、ストンと落ちたように「あーそれね!」「なるほど!」となる。「分かる」。

だから名前は重要だ。
言葉は人の心に爪痕を残すし、固有の名称をつけた途端にそれはそれでしかなくなる。代替不可能な「個」になる。

私はポケモンにも名前をつける派だ。楽しいぞ。




という訳で今日もまっちゃん(品種、ガジュマル、正式な名前、マツバ)の世話をしに行かなければならない。
すくすく育てよ。

フリーペーパーを作りたい


フリーペーパーにずっと憧れている。


というか雑誌とか、なにかしら、媒体、メディアというか、そういうもの。そういうものを作ってみたいな、とずっと思っていた。
昔はそれを漫画という形でアウトプットしていて、中高と、部活で下手の横好きではあるが本を作っていた。
思えば小学生の頃だって(しかも自分で製本して)作っていた。



ので、やっと作りました。

七味をかける、フリーペーパー支部。
ファミマ、ローソン、サンクスなどでネットワークプリントできます。マルチコピー〜〜〜〜!
番号は5TUUDDL79Gだよ。A4サイズ、モノクロで印刷してね、20円だよ。
初回テーマは食べたいけどギリギリまで寝てたいよね、という思いを込めた、「朝食」です。


もうちょっと面白い文章かきたいな〜〜!
面白いことしたい〜〜〜〜!
創作欲がやっと出てきたので、頑張りたいですね。うむ。今後も続けていきたいです。

小松菜奈ってかわいすぎるんだ


ネバヤンの「お別れの歌」、聞いた??PV見た???小松菜奈サイコーじゃない!?

そもそもにしてネバヤンが最高であるんだけれどもネバヤンプラス小松菜奈というなんだ私にとって得しかない組み合わせは、と思うわけです。

「渇き」の退廃的な、それでいながら小悪魔的な、小松菜奈で恋に落ちてDVDを何度も借り結果延滞したのはいい思い出ですが、最近の「溺れるナイフ」のツンギレデレ小松菜奈もまた良かったですよね、椿をくわえるシーンなんか、なんだ、もう、かわいいし、美しいし、小松菜奈のまつげになりたい。という旨の発言をしたら友達に「おこがましい」と言われたので近づくのもはばかられる存在なのかもしれない、小松菜奈は。語彙力が思わず死ぬ。

というわけでネバヤンの「お別れの歌」についてなんですけど、
小松菜奈の彼氏になりたすぎる人生だったと言わざるをえないですね、ええ。
ふざけあって蹴られたいし、んふふって笑われたいし、ビールをくーって飲んでる彼女をみて「おっさんくさいよ」って言いたいし「うるさい」って言われたいし、浜辺ではしゃいでる彼女に目を細めたいし、「なに撮ってんだよバカ」って言われたいし、寝顔を見たいし、いっぱい喧嘩してそれでも仲直りして一緒にいて、強がりも見透かされて、君のことは僕が一番分かってるし、僕のことは君が一番分かってるって思ってて、だけれどもそれはある日突然終わりが来て、
一人きりの部屋で動画見直してああこんなことあったなって、
言えなかったことがたくさんあったなって、
ああ君はこのぬいぐるみが好きだったなって、
気付いたら頬を涙が、


小松菜奈サイコー〜〜〜〜〜〜!


ついに耐えられなくなってブログにかいてしまった、庭には犬を走らせよう…


危うく投影しすぎて精神が崩壊するところだった、冷静になれ。


それにしてもネバヤン叫んでるなあ、これ。