七味をかける

日がなごろごろ

あたためるという危険

カレーを食べている。




私はよく舌を火傷する人間なのだけれども、というのも熱さに対しての耐性が薄いから、そして冷ますことを怠るからである。


一人でご飯を食べるという行為はそれなりに面倒であり、また人に見られることによる虚栄などがなくなる。
レトルトのカレーをレンジでチンして食べることはごく自然に行われたと言えよう。


「600ワットのレンジで2分」とあった。もちろん従う。カップラーメンは1分弱でふたを開ける私だが(どうせ食べてるうちにのびるしと思っている)、ぬるいカレーは耐え難い。
ついでにウインナーを放り込んでおく。
あたためおわり、コタツに戻り、そして食べる。まず一口。



やはり口内を火傷した。



そもそも熱さに耐えれるような作りを動物の口内はしていないのではないかと思う。
それも、野生の状態で温かいものなどはほとんど存在しないことを鑑みれば、自然なことなのではないか。
おそらくライオンが食すシマウマ、シマウマが食す日光によって温められた草、くらいがマックスの温度だろう。
と思いながらウインナーをかじる。


火傷。



なぜ同じ過ちを繰り返すのか、特にこのようなタイプ(ウィンナーや芋類、あるいは餃子等)は熱をこもらせるために余計熱くなっていることを失念していた。


これはおそらく熱、火というものに慣れてしまっている、さらには「レンジのチン」に慣れてしまっていることによって油断が生じ、引き起こされるのではないかと考えられる。


というのもこの前、袋のラーメンを鍋で作り、器に移すのも面倒だからとそのまま持って行こうとし、案の定汁をこぼし、足に火傷を作った身としてはデジャブを感じたためである。




お前がアホなだけでは?ごもっともです。


あたためるということは便利ではあるがやはり危険なのではないか、車もだが、生活に溶け込んでいるからこそ危機に気づくべきなのではないか。
とコタツにもぐりながら思うのであった。



コタツは人間をダメにする魔の兵器である。

他人の服はどこで買われているか問題


人は生きている。




至極当たり前のことである。


そして人として生きているので、衣食住が伴う。
これも文明社会に生きているので当たり前のことである。
縄文人でも布をまとうし狩りをするし風雨をしのげる場所に住んでいる。



「住」というのは話題にされやすい。
「どこらへんに住んでるの?」「どこ出身なの?」わりと初対面でも臆面なく聞ける質問だろう。
「一人暮らし?実家?」この質問は家族の話題だとかにもつなげやすく、また一人暮らしだった場合は苦労していることはあるか、なども聞けるかもしれない。ペット(クソどうでもイイことも多い)の話につながることも可能性としてあるだろう。「てかラインやってる?」これは関係ない。

次に「食」であるが、これは仲良くなってくるとまた知る機会が多くなる。
一緒に食事に行くこと、飲みに行くことはまず確実であるし、まあそこからある程度の経済状況から予想も可能だ。
あとは三大欲求の一つでもあり、話題にされがちだ。
SNSなんかをやってる場合は(女子は特に)飯テロを称した画像(真顔の盛れた♡みたいなよくわからない自撮りは許さない)が上がってくることもあるだろう。



つまり何が言いたいかというと、意外と「衣」に関しては聞きづらいし、知らないことが多い、と思ったのであった。
同年代同性でもない限り、もしくはよっぽど顕著なファッションセンス(いい意味でも悪い意味でも)をしていない限り、なかなかとりあげにくいモノなのではないか。
「その時計いいですね」、は果たして話題として広がるか?多分広がらない。
時計に詳しくない限りはキツイ。褒めることによって好感度は上がるかもしれないがそれだけだ。


こんなことを考えたのには理由があって、ふとお風呂でシャワーを浴びている時に、大分前の飲み会のことを思い出し、「〇〇くんわりとかわいい服着てたな」とふと気づいたのであった。
そして「あれどこで買ったんだろ」と考え、「普通に服選ぶのか…あれ選んで買ったのか…ウケるな」と何故か一人でシャワーを浴びながらフフッと笑っていたのである。気持ち悪いな。


ともかくとして「人は日常的に服を選ぶ生き物である」ということは実はめちゃくちゃ面白いことではないだろうか。
ダサかろうとオシャレであろうとそのファッションの系統がなんであろうと、まず裸で出歩くクレイジピーポーは昨今の日本にはほとんどいないので、毎朝服を選んでいるという事実が確かに存在する。


大抵の場合は突出した点はなく、なんとな〜〜くその人の個性にあった服を着ていることが多い。
ということは、好みを反映しているわけだし、その時々にイイなと思って服を買っていたりする訳である。
そこまで考えると「その服はどこでどんな風にどこがイイと思って買おうと思ったんですか?」などと不躾な質問を浴びせたくなる。
靴はどういうコンセプトで!?試着はどれくらいした!!なぜそのリュックを!?どのタイミングで!?考えれば考えるほど突っ込みどころは増えていく。


これは普段ファッションに気を使ってませんよ、みたいなタイプの人のことを考えたほうがじわじわと笑えてくる。
オラァ!オラァ!と迷いなく服を選びレジに向かう人は少数派だろうし、多分みんなサイズくらいは見ているだろう。誰もがSかMかLかをチェックしている。自分に似合うかどうかを考えている。
それはもう等しく。
当たり前でありながら思い当たらなかった現実。

あとユニクロ利用率は半端じゃない。


いやいや、でも考えてみると、人と接する時に見える面は狭い。
対象のことを知ったつもりでいても、実際そうでもなかった、というケースは多々ある。
普段彼らがどんな生活をしているのか。
一人で変なことに笑ってるかもしれない。
タンスの角に指をぶつけてるかもしれない。
鏡をみて自分のことをイケてるって考えてるかもしれない。もしかしたら宇宙人かもしれない。
何を考えているのか何をしているかなんて完全に把握することは不可能だ。


誰だって服を選んでいる。

閉鎖空間における盛り上がりについて


ドライブに行ってきた。




「食わず嫌い」というか、やらないでなんとなく「たぶん、きっと好きじゃない」(歌詞みたいになってしまった)と思っていた事象が結構ある。


例えばそれは髪を染めるとか、ライブに行くとか、ウニとか、卓球をするとか、車を運転するといった事象が私の場合は当てはまる。今は嫌いではない。
北海道で食べたウニは美味しかった(どうでもいい)。
まだ好きになれていないことをあげれば、スポーツ観戦とか就活とかである。


人は不慣れなことを恐れる保守的な生き物なので、特に私はインドアオタクをしてきたのでそういうところがある。


免許を取ったのはわりと「まあやってみっか」的気まぐれの所業であり、実際合宿中ウワーンと泣き言を言っていた。ちなみに駐車は今でもど下手。

まあ取ったからにはもったいないし運転してみたいな、と思うのは貧乏性なのか、当然の心理なのか。


ともかくドライブに行ってきた。
小さい頃は親の買い物に付き合っていて、その時私は寝るの選択肢ばかりをチョイスしてきたので、あまりドライブというものを楽しいと思っておらず、なんでみんなあんなに車に乗りたがるのか…?と訝しんでいた。



いや、楽しいじゃん…


まず要因として仲のいい友人と一緒、というところがある。大きいね。分かる。
あとは好きな音楽を流しまくれるので半カラオケ的空間になること(楽しい)、あと水曜どうでしょう旅猿など旅番組の影響か。
加えて自分達で好きなルートを選べる、道を間違えたり不慣れであるがゆえのアクシデントなどのアトラクション感も盛り上がる要因だろうか。
ハラハラドキドキ。吊り橋効果?恋、始まる!?(始まらない)


ある種車の中は閉鎖空間であり、独自の雰囲気をつくり出すことが可能である。心地よささえある。
そして目的地が存在し、文字通り紆余曲折を経る、というストーリー性も生じる。
そう考えるとドライブが楽しいのは当然なのかもしれない。


常々旅行というのは目的地ももちろん重要だけれど、作り出される空間、雰囲気も大切だと思っていて、閉鎖空間はそれが比較的作り出しやすい場なのだとか考えたり。
じゃなかったら合宿とか修学旅行って楽しくないんじゃないかなー。共有が元にある非日常っていうの?





本当は海でハードボイルドを感じるという意味のわからないことが目的だったんですけどマジで快晴だったのでただただ楽しいだけだった、結果オーライ!?(ハードボイルド感はない)


[


海鮮丼はうますぎである、終わり。
いつかは徹頭徹尾夜な夜なドライブしたいものである。今回はジュディマリって感じ。

「進研ゼミでやったとこだ!」現象

「これ、進研ゼミでやったとこだ!」


という有名なセリフがあるけれども、ああいうシチュエーションは日常にも度々起こる。


いわく、

「昼ドラじゃん…」
「ディズニーみたい!」
もののけ姫のような自然」
「ドリフかよ」

等。

でも本来ならば逆である。昼ドラは現実を舞台にしてそこから創作されたものであるし、ディズニーはある種「理想化した」現実を映し出した世界であり、もののけ姫にしてもモデルがあり、ドリフにしても「おかしさ」を作りこんだものである。
人工的世界の日常への逆輸入。デジャヴ。

偽物の世界、と言ってしまうとなんだかダメな感じに聞こえるが、その実本物よりもよっぽど「ホンモノ」だったりする。
アイデンティティとかってわりと作り込んでるものだと思う。
今はSNSなんかがあるんでなおさらアイデンティティを選ぶ時代だなあと。


「例え」たがりな生き物なのだなとも思う。
結構、人の言語能力には限界があるものなので、近しいものでその概念を強化したほうが圧倒的に分かりやすい。
人を紹介するときに「こういう顔に似てる」「動物でいうと〇〇」とか。
突出したことは分かりやすい。曖昧なことはわかりにくい(でも普通すぎるも個性になったりするとこが面白いとおもう)。


ただし現実は小説よりも奇なり、とはよく言ったもので、あらかじめ設定されていたハードルを越えてくるものは意外とある。
そうするとキャパ超えして近しいものに例えざるを得ないのかな〜〜なんて思った。





とりあえず、私事なんですけど(ブログだから私事しかないけど)、男の子の友情は最高と思った話でした。
ドラマかと思った。漫画かと思った。
もう一週間くらい前の出来事なんですけどひきずってる…………辛い………

世田谷ボロ市に行ってきた


わりとなんでも二つ返事でオッケーしてしまう。




「明日〇〇に行こう」と言われても、(どこや??)と思いつつも、その誘った人が好きならばわりと行くかあ、となってしまう。
フットワークが軽いと言えば聞こえはいいけれど、軽い女と言うと完全にダメな方向に聞こえるな。



今日は某オンリーイベントにわたしの三年来のネッ友のオールバックな髪型をしているYさんが「一人で行きたくない…」などと駄々をこねるので一緒に行き、薄くて熱くなる本を買いあさり、そしてそのあとさらばして、ジャミラ似のMくんが「ボロ市に行きたい〜〜」と言うので、国際展示場駅から乗り換えに乗り換え、世田谷ボロ市に行ってきた。





世田谷ボロ市はなんと2017年度で439年目にあたるらしい。
その歴史を遡るのは面倒なのであれだけれど、北条氏政が云々ということらしい。詳しくは調べて(匙を投げる)。

夕方行ったんだけどこの電気の感じ、いいよね。
Yさんに送りつけたら「ヨーロッパの田舎感がある」と申しておりました。




名物は代官餅なんだけど売り切れてました〜〜てへへ〜〜!遅くから行ったからね…


結構人も来ていたし、観光っぽい外国人もいた。子供から大人まで本当にいろんな人がいたな。

あとめっっっちゃ広い。いわゆる蚤の市なんだけれども、広い、広いそして広い。
広いぞ〜〜!(何回言うんだ)




(楽しくてあんまり写真撮らなかった……悔いだ…)


布、古着、着物、レトロなもの、家具、ライト、その場で食べれるもの(シャーピンとかやきとり食べたかったな〜〜甘酒〜〜)、昔のおもちゃ、漬物、野菜、花、靴、湯沸かし器、皿、絵、よくわからん骨董、手作りの何かとか、いろいろ。
安いものから高いものまで、見てるだけで楽しかった。ピンキリ。
出品してる人も様々で、中にはワンカップ片手に商売をしているおじちゃんもいた。
たしかに寒かったからしょうがないと思う。
飲みたい気持ち、分かるぜ。

ほんとさむかった。さむかった。爆暖靴下なる謎のものが売ってたけど、買いたくなる気持ちもわかる。足の指めっちゃ冷える。
防寒って大事だね…



そして、じゃじゃーん。





買いました。
ホッピーの瓶は自分で電気で曲げたというおじちゃんから、寒いね〜〜!と声をかけてくれたファーが豪勢なお姉さんからは謎の表札とかに横にかけるやつを、イスはワンカップのじいちゃんから。
よかろう。


1/15、16とそれから12/15、16で開催してるんだってさ!
楽しいかったから年末か、来年も行きたいな!




お財布がさむい。
こんどは友達の話にうんうんと頷いていたらストリップ劇場に連れてかれるらしい。
わー、たのしみ。


今夜は鍋です、おやすみなさい。

行きつけの店への憧れ


行きつけの店ってカッコ良くない???




画像はイメージです。


大人への憧れというものがあるので(相対的概念であるのでたぶん小さい子から見たら私は大人にあたるのだろうが)、「行きつけの店」というものにもなんとなくイイな、と思っている。


私にとってピアスもそうだったし、コーヒーのブラックもそうだし、タバコも「大人」的なものである。
そうして「行きつけの店」もその記号の一つなのだ。


「行きつけの店」がなぜカッコ良く見えるのかを考えてみると、たぶんその人が確固たる自分を持っているように見えるのではないかと思う。
変ゼミの登場人物である市河さんが「どんなこだわりも突き詰めればイズムになる」と言っていて、読んだ時にまさにそれだー!と得心がいった覚えがある。
おしゃれイズムがおしゃれなのはイズムのある人が出るからではないか(そのまんまやないか)(どういうことやねん)。


ともかく、「行きつけの店」に憧れている。
そしてそれはできるならば「バー」か、「喫茶店」がいい。なんとなく。偏見。パンケーキ専門店ではどうにもそう思えないのはなんでだろう。やっぱ偏見だな。


というわけで喫茶店に行った。この店は二回目。
落ち着いた感じ。静かな店内。良いぞ。良いぞ。
と思ったけれどもコーヒーを飲みすぎるとお腹が痛くなるので、イマイチ決まらないのだった。
次はクロックムッシュが食べたい。
目指せ常連。


背伸びにしか見えないのだろうけれど、背伸びをし始めないと、それに慣れることは永遠にないのではないかと思ったりする。
慣れることと好きは似ていて、例えばよく食べるから好物なのか、好物だからよく食べてしまうのかというのは、ちょっと考えてみると微妙なところだ。
家のご飯が一番好きな味になるのはそういうところにあるのではないか。とか。



ある日「行きつけの店」もしっくりくるタイミングが来る。と、思いたい。

風邪が治らない


病は気からというけれども、正月なにもしていない(観葉植物の水やりしかしていない)のに風邪をひいた。

こたつと布団と食卓の往復ばかりしていたのが原因なのか、自堕落な生活に神が鉄槌を下したようである。ごめんなさい。蟹おいしかったです。すきやきもおいしかったです。

というわけで現在もインザ布団なのであるが、そうなるとSNSサーチャーとして活動してしまう。現代っ子か。同学年の子は頑張ってるなあ私も頑張らなきゃなあ、いやしかし鼻水がとまらないなあ。

鼻水が出る仕組みについて調べている場合ではないのだよ。
録画も見なきゃだし、メールの返信をしなきゃだし、年賀状の返信もしなきゃだし、来週再来週と試験にはいるし…
ごほごほ。
忙しいと思えば全てが忙しくなるので、目の前のことを一つ一つ消化しなければならないのですよ。

ゆるゆるとエンジンをかけたいところであります。
とりあえずお風呂に入らなければ。

だらだらすること選手権ならば優勝の自信がありますぞ。いやしかし、休みとは偉大なり。


とっとと風呂〜〜!
はい、行きます。