七味をかける

日がなごろごろ

藪蛇と虎児とサーフィン


とてもどうでもいいことを調べがちである。



スマホというものは大変便利で、その便利さ故に私はナンデモ検索病にかかっている。
気づけば履歴には芸能人のスキャンダル、誰かの悩み、あの新商品はどうだとか、映画のレビューとか、休載ばっかりの漫画のネタバレとか。


なんでも調べるというのは怖いもの見たさというか、沼に足突っ込んでみるみたいなことだ。
だから見なきゃよかった〜〜…なんてこともある。
好きになれそうだった人の悪口とか。
でも調べたら何か出ることがわかっているとついつい検索してみてしまうのだ。
興味本位。藪をつついてみたら蛇が出るかもしれないけど虎穴に入らなければ虎児も得られない、からまあ良しとしよう。


さらに言えば人のふぁぼ欄を漁るのもついついやってしまう。というかもうこれは好きの領域だ。
同じような趣味を持ってる子は情報収集に役立つふぁぼ欄になっているし、全然趣味の違うふぁぼ欄はそれはそれで「へえこんなん興味持ってるんだ」とか「なんやこれ、知らんかった」という気持ちにさせられる。
そしてふぁぼからふぁぼへと飛んでいく。ネットサーフィンというかふぁぼ欄サーフィンである。波に乗る。


そうしてなんとなくその人と繋がった気になってしまうのが面白さで、怖さでもある。
接点のない人の話に共感して泣くことも、意味がわからないと怒り出すことも可能なのだ。


何で人を「知って」いることになるのか、基準値をどこに置くのか、悩みどころだ。
実際本当の友達よりもよっぽど「見ている」だけの人の方がその人のことに詳しいかもしれない。ホラーだな〜〜。



ただ別にネットに表出するものなんていうのは一部でしかないのであり、それが人であれ物であれ情報であれ結局それを判断するのは別の人間なのである。
価値は相対的でしかない。
手のひらにあるのは片手で持てるようなものだけど、私にとっては宇宙だし、おそらく他の多くの地球上の生命体にとっては餌にもならぬゴミで原始人にとっては石板だ。

きっと私もそ〜〜なのかな〜〜と思ったり。
でも誰に評価してもらうかが大事なのかな〜〜とか思ったり?

そんなかんじ。



どうでもいいけどもうふぁぼ欄ていわないか?お星様じゃなくてはーとだもんな、♡。


おやすみなさい。

とんかつDJアゲ太郎が完結した

今週木曜日にとんかつDJアゲ太郎が完結した。
フロアもカツもアゲにアゲて大団円だった。



とんかつDJアゲ太郎 1 (ジャンプコミックス)

とんかつDJアゲ太郎 1 (ジャンプコミックス)



[1・2話]とんかつDJアゲ太郎 - イーピャオ/小山ゆうじろう | 少年ジャンプ+



まだ1話〜3話も読めるので、読んでない人は読んでみてほしい。




というわけで記念にとんかつを食べに行った。


目黒の「とんき」である。


そこは渋谷に行けよ、と言われそうだけれどもなんてったって近かったしずっと行きたかったので。





「とんき」は目黒とんかつ御三家の一つである。



グーグル先生もそう言っている。


東とん登組合長のかつ目は目黒にあるし、多少はモデルにしたかもね?
そして「とんき」の東高円寺店はこちらの動画に協力している。


TONE-CUTS GROOVE PROJECT -リアルとんかつDJアゲ太郎- - YouTube


おなかがへる。




雨のなか扉を開けると、夕飯時ということもあってかなかなか賑わっている。

注文をする。定食メニューはロース、ヒレ、串カツの三つだ。ロースにする。座って待っていると呼ばれるんだけど、どこに座ってもいいのはすごいなあ。順番覚えてるんだものな。すごい。

2名様どうぞ、と声がかかり、座ると暖かいおしぼりと熱いお茶をだされる。ビールの中瓶を一本頼む。とんかつを待ってる間にツマミにピーナッツをくれる。
それぞれが役割を守って動いているので面白い。



アゲ太郎が完結した云々の話をしていると店員さんが話しかけてくれて思わずテンションが上がってしまった(平静を装った)。とんかつ界隈でも有名なのかな。どうなんだろ。




ロース定。脂身は少なめで、固めだけど筋なんかはないので歯はしっかり通る。カリッとしてる衣が美味しい。あと豚汁ってなんでこんなに美味しいんですかね?漬物の塩っけもちょうどよし。キャベツのおかわりだけ途中いただいて(ほんとは豚汁もお代わりしたかったけど胃が限界だった)、ごちそうさま。

食べ終わるとおしぼりを変えてくれる。あったかい〜〜。お茶も注いでくれる。あったかい〜〜〜。
結果めちゃめちゃあったまった。chill out。ほっ。



なんか最後にビックサンダーくれたよ。なんでだ。ありがとう。






最近ご飯食べすぎなのですが、困りますね。

風呂に入ることと滝行の相違

ぼんやりとしている時間が多い方だと思う。
とくに風呂に入る際、それは顕著になる。
お湯に浸かっていてもだし、シャワーを浴びていても雑念が次々に浮かんできて、気づけば何もしていないのに時間が過ぎている。



一方で滝行。Wikipediaによれば、

滝行(たきぎょう)とは滝に入って行う修行のことである。

そのまんまだ。
またその意義については、

滝という激しい水の中では雑念が湧く余裕すらなくなる。精神統一が行いやすい。
自然と向き合い自然と一体化する体験を得る。

ということらしい。


何が言いたいかというと、シャワーを浴びるという行為は、そのビジュアル面は滝行に似てるよなあって話だ。
でもその割には雑念がやたら浮かぶシャワ行(と呼ぶことにした)と、雑念をなくす滝行、意味合いは全然違ってくる。さらに言えば、シャワ行はものすごく日常的にするが、滝行は全然日常的でもないし、したくもない。


しかし「滝行 シャワー」で検索すると、滝行代わりにシャワ行をする人はいるようである。
ただし、温水ではなく冷水で。
ここから、滝行を滝行たらしめているのは「冷たい冷たい冷たい」と「痛い痛い痛い」という要素であることが分かる。選択肢がなくなる、雑念がわかなくなる、精神統一、無という経緯が必要なのだとなんとなくわかる。


これは家では勉強できないが、塾やカフェで勉強する論理に似ている気がする。家というものは誘惑のかたまりである。「テレビ」「ゲーム」「漫画」代表的なものはこの辺だと思うが、集中しにくい環境なのである。しかし一旦家を出ればやることがなくなって、「まあ…うん…勉強するか…」となる。



ただしシャワ行も他にすることがない状態という点では同じである。
ただし、滝行とは緩さが違うゆえに、より転じやすい思考がかわる、というだけだ。
滝行は他のことを考えようものならば「痛い冷たい」という感覚によってシャットアウトされ、無にならざるをえない。
シャワ行にはそのシャットアウトする原因がなくただひたすらリラックスした状態になるためぽけぽけとマヌケ顏で考え事に興じることになるのだ。
止めるものがないのだ。





ということをシャワーを浴びながら考えました。
こうして水道代ガス代が増えていくのである、気をつけたい。

身内贔屓と四面楚歌


すごくカクカクしたタイトルになってしまった。
のでクリープハイプの二十九、三十を聞きながらお読み下さい(なんとなくカクカクしてるし)。




SNSの台頭により、私達は属性で武装している感が増した気がする。


もともと区分はあるんだろうけど、好みのものとか、所属しているものとか、をネットで表明しているので、他人にもそれが分かりやすく伝わるようになった。
ツイッターのプロフ欄でスラッシュで列挙する奴がたぶん分かりやすい(JK2/OORer/邦ロック/guiter/believe yourself、みたいなかんじのやつ)。
あとインスタの#だらけなやつ(#cute#cafe#loveとか)とか、ちょっと違うかもしれないけどピクシブのタグ文化もそういうところがあるんじゃないかな。


写真や作品やひいては自分自身が一つの要素で出来ているわけではなく、様々なものによって構成されているということを自覚した上で、ある程度他人にこういうことなんですよ、と示している。
そうすれば「これ好きなんだね」と話題が広がったり、同じ属性であれば仲間意識が芽生えるものだと思う。


ただし一方で貶す、ディスられるという属性列挙もある。
よくあるツイッターネタに「〇〇あるある」を画像で示したものがある。
例えば「量産型女子大生」、とか。
イメージ画像とともに茶髪、くるくる、前髪巻くよくある髪型、女子会ってすぐ言いがち、よく似た服装、等の特徴を並べ、半分馬鹿にしている。
(こんなんだいたい何にでも当てはまる血液型占いとあんまり変わんないのにね、と思いますが、前半の文章でやったのでいう資格はない)



こういったものは同じ文化圏から自虐を含めてリツイートする場合と、全く違う文化圏だからこそディスっている場合がある。
「わかるwww」に「自分はこうではない」「自分は自覚していますよ」という思いを込めている(んじゃないかなたぶん)。


ネット上にいればそういうネタに同調しても多数派であるし、ダメージを負うことは非常に少ない。
これが現実はどうかというと、もし知り合いでそういう人がいたとしても、まず直接口に出すことはないだろう。オブラートに包むって大事。
これが口をついて出る場合は現実でも多数派であることがはっきりしている時だけである。
マイノリティになることは体力のいることで、同意してマジョリティになることの方が圧倒的に楽だから。


声の大きい人の意見が通ってしまうのは当然といえば当然で、みんなどこかに属したいと思っていて、仲間はずれにはされたくない。
そして同調圧力に屈したりする。
正義の反対は別の正義(野原ひろし?)であって、不快なことはいつでもあるんだろうな。


当事者なところがあるからそう思うのであって、例えばだけど私が政治のことには全く興味がないのは自分に関係ないことだと思っているからだろう。てへへ。






道徳でよく教えている「相手の気持ちになって考えてみよう」、すごく難しいことですね。

就活ってなんだろう

「自分たちはそろそろ終活しなきゃなあ」



ははは、と笑いながら話すのは私が働くバーの常連の、Tさんである。
終活、つまりは終わりの活動、残りの人生を見据えた人生設計的なものを指しているようだった。
あんまり笑えることではないけれども、なるほどな、と思ってしまうところがあった。



私は現在就活真っ盛りなのだが、やっていて思うのは就活は得意不得意のパラメータ全体で見ていないなあ、ということである。
エントリーシートだとか、面接だとか、どうしても偏りが出る。
それも含めての就活だよと言われたらそれまでなのだし、まあ愚痴なんだけれど、何やっていいかって分からなくない?
ありのままのじぶんって?
強みって?頑張ったことって?
素直に答えることが大事?
縁のある会社って?
3月に就活解禁なのにこんなこと言ってるのやばくない?
それって目の前のカツ丼食べるより大事なことだろうか?夜中ってお腹空かない?(話逸れすぎ)(おなかすいた)


どっかの世界みたいに自分の能力を勝手にテストで測ってくれて、向いてる職業を提案してくれたら楽なのになあ、とか、考えてしまう。
ドドンッ!あなたは!ヨガインストラクターに向いています!!エーーーーーーッ!?みたいな意外な才能発見みたいなことないの?
押入れからお宝が見つかって鑑定されちゃう世の中だし、東南アジアの市場でボンゴレリングが発見される世の中だよ???


でも一方で(突然真面目に戻る)「就活」っていう〆切を突きつけられてるから、考えさせられているような気もする。
人生の、一区切り。
どうなんだろうか。
私は人より自分のことを考えてきた方だ、と思っているけど(無駄な思考が多いともいう)、人の頭の中を覗くことは不可能であるので答え合わせをすることはできないのでこればかりは、ねえ。


思うと私も面接官も同じ土俵に立っていて、必死に考え続けている(くだらないことも含む)し、腹を探り合っている(さながらデスノートの心理戦超劣化版)、ということになる。
真理はわからんし、心理もわからん(おやじぎゃぐ)。



面接、それは結構滑稽な光景だ。





たいしたことないんだよね、生きる意味なんて、考えたところで、楽しんだ方が得だし、やりたいことをやった方がいい(ここでBGMを流す、「やりたいことやったもん勝ち〜〜せーいしゅんなら〜〜」)


いつも思うけど馬鹿は賢くて、賢ぶってるやつの方が馬鹿なのかも。
私が生きてるのはマグロみたいに泳ぎ続けることと大差ない。
思考はぐるぐる回るだけである。それでも町はまわるのである。




ここの蕎麦美味しかったよ。


けっこうこっけいなこうけい、は早口言葉っぽい。
以上です。

あたためるという危険

カレーを食べている。




私はよく舌を火傷する人間なのだけれども、というのも熱さに対しての耐性が薄いから、そして冷ますことを怠るからである。


一人でご飯を食べるという行為はそれなりに面倒であり、また人に見られることによる虚栄などがなくなる。
レトルトのカレーをレンジでチンして食べることはごく自然に行われたと言えよう。


「600ワットのレンジで2分」とあった。もちろん従う。カップラーメンは1分弱でふたを開ける私だが(どうせ食べてるうちにのびるしと思っている)、ぬるいカレーは耐え難い。
ついでにウインナーを放り込んでおく。
あたためおわり、コタツに戻り、そして食べる。まず一口。



やはり口内を火傷した。



そもそも熱さに耐えれるような作りを動物の口内はしていないのではないかと思う。
それも、野生の状態で温かいものなどはほとんど存在しないことを鑑みれば、自然なことなのではないか。
おそらくライオンが食すシマウマ、シマウマが食す日光によって温められた草、くらいがマックスの温度だろう。
と思いながらウインナーをかじる。


火傷。



なぜ同じ過ちを繰り返すのか、特にこのようなタイプ(ウィンナーや芋類、あるいは餃子等)は熱をこもらせるために余計熱くなっていることを失念していた。


これはおそらく熱、火というものに慣れてしまっている、さらには「レンジのチン」に慣れてしまっていることによって油断が生じ、引き起こされるのではないかと考えられる。


というのもこの前、袋のラーメンを鍋で作り、器に移すのも面倒だからとそのまま持って行こうとし、案の定汁をこぼし、足に火傷を作った身としてはデジャブを感じたためである。




お前がアホなだけでは?ごもっともです。


あたためるということは便利ではあるがやはり危険なのではないか、車もだが、生活に溶け込んでいるからこそ危機に気づくべきなのではないか。
とコタツにもぐりながら思うのであった。



コタツは人間をダメにする魔の兵器である。

他人の服はどこで買われているか問題


人は生きている。




至極当たり前のことである。


そして人として生きているので、衣食住が伴う。
これも文明社会に生きているので当たり前のことである。
縄文人でも布をまとうし狩りをするし風雨をしのげる場所に住んでいる。



「住」というのは話題にされやすい。
「どこらへんに住んでるの?」「どこ出身なの?」わりと初対面でも臆面なく聞ける質問だろう。
「一人暮らし?実家?」この質問は家族の話題だとかにもつなげやすく、また一人暮らしだった場合は苦労していることはあるか、なども聞けるかもしれない。ペット(クソどうでもイイことも多い)の話につながることも可能性としてあるだろう。「てかラインやってる?」これは関係ない。

次に「食」であるが、これは仲良くなってくるとまた知る機会が多くなる。
一緒に食事に行くこと、飲みに行くことはまず確実であるし、まあそこからある程度の経済状況から予想も可能だ。
あとは三大欲求の一つでもあり、話題にされがちだ。
SNSなんかをやってる場合は(女子は特に)飯テロを称した画像(真顔の盛れた♡みたいなよくわからない自撮りは許さない)が上がってくることもあるだろう。



つまり何が言いたいかというと、意外と「衣」に関しては聞きづらいし、知らないことが多い、と思ったのであった。
同年代同性でもない限り、もしくはよっぽど顕著なファッションセンス(いい意味でも悪い意味でも)をしていない限り、なかなかとりあげにくいモノなのではないか。
「その時計いいですね」、は果たして話題として広がるか?多分広がらない。
時計に詳しくない限りはキツイ。褒めることによって好感度は上がるかもしれないがそれだけだ。


こんなことを考えたのには理由があって、ふとお風呂でシャワーを浴びている時に、大分前の飲み会のことを思い出し、「〇〇くんわりとかわいい服着てたな」とふと気づいたのであった。
そして「あれどこで買ったんだろ」と考え、「普通に服選ぶのか…あれ選んで買ったのか…ウケるな」と何故か一人でシャワーを浴びながらフフッと笑っていたのである。気持ち悪いな。


ともかくとして「人は日常的に服を選ぶ生き物である」ということは実はめちゃくちゃ面白いことではないだろうか。
ダサかろうとオシャレであろうとそのファッションの系統がなんであろうと、まず裸で出歩くクレイジピーポーは昨今の日本にはほとんどいないので、毎朝服を選んでいるという事実が確かに存在する。


大抵の場合は突出した点はなく、なんとな〜〜くその人の個性にあった服を着ていることが多い。
ということは、好みを反映しているわけだし、その時々にイイなと思って服を買っていたりする訳である。
そこまで考えると「その服はどこでどんな風にどこがイイと思って買おうと思ったんですか?」などと不躾な質問を浴びせたくなる。
靴はどういうコンセプトで!?試着はどれくらいした!!なぜそのリュックを!?どのタイミングで!?考えれば考えるほど突っ込みどころは増えていく。


これは普段ファッションに気を使ってませんよ、みたいなタイプの人のことを考えたほうがじわじわと笑えてくる。
オラァ!オラァ!と迷いなく服を選びレジに向かう人は少数派だろうし、多分みんなサイズくらいは見ているだろう。誰もがSかMかLかをチェックしている。自分に似合うかどうかを考えている。
それはもう等しく。
当たり前でありながら思い当たらなかった現実。

あとユニクロ利用率は半端じゃない。


いやいや、でも考えてみると、人と接する時に見える面は狭い。
対象のことを知ったつもりでいても、実際そうでもなかった、というケースは多々ある。
普段彼らがどんな生活をしているのか。
一人で変なことに笑ってるかもしれない。
タンスの角に指をぶつけてるかもしれない。
鏡をみて自分のことをイケてるって考えてるかもしれない。もしかしたら宇宙人かもしれない。
何を考えているのか何をしているかなんて完全に把握することは不可能だ。


誰だって服を選んでいる。