七味をかける

日がなごろごろ

やりたいことリスト

めでたく、内定がとれた。
やったよ〜〜〜〜〜〜〜〜やった〜〜〜〜〜


あと1社だけ受けて、私の就活は終わります。やった〜〜やった〜〜やったよ〜〜褒めてくれ〜〜〜〜ウオ〜〜〜〜



ということで、やりたいことリスト(〜大学卒業まで)を作りました!パンパカパーン!ワー!


  • アマゾンの欲しいものリストを順次購入する
  • 8月までに旅費を貯める
  • 突然のドライブをする
  • 美味しいものを食べに行く
  • どうぶつの森をやる
  • ドッキリを仕掛ける
  • 卒論を書いてドヤ顔をする
  • 薄い本を作る
  • 映画を山ほど見る
  • 本を山ほど読む
  • 高い靴を買う
  • 髪を染める
  • 大阪に行く
  • めちゃくちゃデカい絵を描く
  • 爪を塗る
  • 激動の水族館ウィークをする
  • 酒を飲む
  • 久しい人に会う



やりたいことやったもん勝ち!イェーイ!



追記、マスターに内定祝いでサイドカーをおごってもらった、サイコーだ

人を忘れる


バーで働いているとお客さんの名前と情報を覚える必要がある。

誰しも覚えられていればそれだけで嬉しくなるものなのだ、たとえ覚えられているのが名前だけであっても。



やっぱりよく来る人は覚えやすいし、それから変わった人も強く印象に残る。

でも、転勤であるとか、仕事が忙しいとか、逆に退職したとか、何かの都合上あまり来なくなってしまう人もいる。
そうなると段々と記憶は薄れていくのだった。



こういうのは自転車の操作と一緒で、忘れることはない。
ただし普段の生活の中で「使わない」の引き出しに入ってしまうのだった。

別にお客さんに限った話ではなくて、これは会わない人会えなくなった人とか、今しなくなってしまったこと、とかに当てはまることだ。
だから懐かしいとか久しぶりとかそういう言葉が出てくる。
しょうがないことなのだけども、少し寂しい。

used toの構文思い出した、わー使ってない頭。



ただ突然思い起こしたりもする訳で、
お風呂に入ってるときとか。寝てるときとか。
夢の中にその人が出てくるのは会いたいと思われてる証拠だったか。

今度は古文の授業を思い出してしまった、これもまた懐かしいのだった。
駿河なる 宇津の山べの うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり だ、なつかしーい!

やたらと高校の時のことを思い出してしまう、いつか大学のことも過去になるんだな。
終わってしまえば全て遠い話。

こういう記憶と違って、いつでも会えるしいつでも会えないのが人だし、自分の体は一つしかないのでとてももどかしい。
こうして会いたいおばさんと化すのだ。



懐かしい人に期間が空いて、もう一度会った時にマスターみたいに久しぶりって言えるだろうか、まるで知らない人みたいになってしまったら嫌だな。
といいつつも連絡を取るのに尻込みしちゃうこともあるし、なんと人間めんどくさいのか。
私は会いたいよ!

変わっちゃったねなんて言わないで、変わるのは当たり前だから、それは置いといて美味しいもの食べたいよ!


無性に聖歌を歌いたいし、あのダサい制服を着たいし、近くのコンビニで買い食いしたくなった。



今日はSHISHAMOちゃんの「中庭の少女たち」を聞きながらかきました、以上。

又吉くんの『劇場』を読んだ


泣くという行為はどこから生じるのか。


私の友達のYさんは映画やらですぐ泣く人である。
「そんなところで!?」「ほんとに!?」ってほどすぐ泣く。
人にオススメしやすい映画で「レオンはわりとオススメしやすいんじゃない?」といったら「神経を疑う」と言われた。泣くから見れないらしい。



私はというと映画ではあまり泣かない。
なんというか、映画というメディアは客観性が強くてあまり共感できないのかもしれない。
そして映画は立ち止まってはくれないので、泣きそうになっても次の場面になってしまう。それ故かな、と思う。

そんなんだからか主観性の強い小説ではわりとすぐ泣いてしまう節がある。ので、なるべく泣きそうなものは避けて通る。パワーを使うので。
ごはん系の小説を買いがちなのだけれど、このへんは安全である。ほのぼのめのものが多いからである。


しかしながら好きな作家の本は買う。

というわけで又吉くんの本も買う。
普通に、又吉くんは芸人としても文章を書く人としても好きなので。文章が、なんていうか、キレイすぎなくて好きなのだ。

常々思っているのが、文章化できない感情、余白にある物事が山ほどあるということだ。
ぐるぐると足掻いて、うやむやになって、なんていえばいいんだろって思うようなこと。
でもそれがなんとなく感覚として別の誰かも分かることがあって、そういう時に救われた気持ちになるのかな、と考えたり。
綺麗事ばかりではないのだ。

話を読んだり、聞いたり、見たりするときに期待することは「面白いこと」だけでは無くて、とても不思議だ。



そんなんだから読んだ時に泣かされてしまったのだ、『劇場』。

文章中にあった劇団「まだ死んでないよ」の評と同じである。なんとなくわかっていた展開だとしても、結局泣かされてしまうのである。
あと高円寺、って聞くと銀杏BOYZの「銀河鉄道の夜」出てきちゃうね。

人は説明できる行動ばかりをとるわけではなくて、そういうものがリアリティを生むのかも。

かなり具志堅用高だった。


劇場

劇場


好きなやつもはっておく。


水道の蛇口をひねれ


なんだかマンネリな気がする。
日々のことである。


別にマンネリでも全然構わないのだけど、

と言っている時点で、「けど」という言葉が出た時点で、それは大概の場合満足していないのではないか。


いろいろあがいたところで環境には適応するもので、そして安定したと同時に不安も不満も出てくるものなのだなあと思う。




ところで最近「トリコ」を読んだ。
昔「絵柄が無理」と言って敬遠していたが全然読めたしむしろ面白かった。


たいていの場合ザ、少年漫画の主人公は「やりたいことは何か」ということには葛藤しない気がする。
もっと大きなあれやこれやに悩まされては成長してキラキラと輝いている。


何もない日常が大好きであると同時に、隕石が落ちてきたら?ゾンビが大量発生したら?魔法が突然使えたら?謎の組織に連れ去られたら?と考え非日常に憧れてしまうのは結局飽き性もしくは逃避ということなのか。


おそらく彼らが葛藤していても私の葛藤と質が違うのは彼らは「やっているのにできない」で私は「やっていない」からである。




面接で「今まで一番辛かったことはなんですか」と聞かれた。
一番辛いなんていうわかりやすい困難がないからこそ人生が辛いのでは?


就活全部失敗しちゃっても面白いな、なんて考えてしまうのはそういうところかもしんない。

だいたいのことはネタだ。



挑戦ということが乏しい人生だった。
「なんとなく」中学受験をして、「なんとなく」指定校推薦で大学に入って、「なんとなく」アルバイトとサークルを決めた。

主体的に動くことがとても苦手で、でも大体のことをこなせる能力はあった。
任された仕事の中で成果を出すということは得意な方だった。


もっと出来るんじゃないかって、もっとやることがあるんじゃないかってまあないものねだりなんだけども。思ったよりも自分はその程度の人間であることを自覚すべきだ。


高校時代の恩師の言葉を思い出す。
卒業旅行で友人二人と、その先生とネパールに行った時の話だ。
帰国の前に、「ネパールを見て、どう思ったか」と問われた。
よく覚えていないけれど、ありきたりなことを言ったと思う。
先生は「それは君の言葉ではない、優等生の答えだ」というようなことを言っていた。
その人はずっと「自分の頭で考えろ」、と教えていたし「分からなければ動け、動かないと何も分からない」、と言っていた。
ずっとそれは記憶に残っている。



美術部に入っていた時のことも思い出す。
部活ではクロッキーという五分から十五分程度で人物デッサンをする、という時間があった。
その時に先生は「時間は自由に使っていい、視点を変えてみて別のところからみるのも、形を掴むには必要だ」と言っていた。
現状打破したいならその場で考えててもどうにもならんのかも、と思ったり。



インスタント沼という私が邦画で一番好きな映画があるのでよかったら見てみてください。

このくだらない日常を洗い流すのである。以上。

掘り起こされる謎の言葉たち


久々にevernoteを開いた。
なんとなく使わなくなってしまっていてから二年くらい経っていた。



当時は結構いろいろメモしてたんだなあ。





だけど一言だけメモするのほんとどうかと思う。
行きたいのか?多分いぬごいみさきじゃなくて犬吠崎だし…


ていうかいろんなところにメモしすぎだ。



これはツイッターの下書き欄


欲望に忠実すぎる




これはメールの下書き欄



ジャガイモのくだりがマジで意味がわからない


なんとなくメモしたものは大抵その場でしか覚えておらず、ただただ見つかった時に戸惑いが生じるばかりである。

スマートフォンにはいっているものだけですらこうなのに、過去のノート、昔のブログでも漁ったらどうなるのだろうか。死が訪れそう。ていうか今もあるのか?



しかしながら懐かしさを感じ消せないのも事実である。


こうやって謎の言葉は積み重なっていく。

歯は砕ける


私はよく転ぶ子供だった。


正確には今でも転ぶしものは落とすしものにぶつかる。



よく転ぶという事実を裏付けるエピソード、証言はたくさんあるが、中でもやはり小5の頃家の前で転んで前歯を折った記憶が一番強烈である。



その日私はタイトスカート(っぽいもの)を履いていた。


小学生の頃はジーンズばかり履いていたので慣れていなかったのだろう、少し急がなきゃ、と走ろうとした瞬間である。
スカートはあまり開くものではない。
手はランドセルにかけられていた。



結果私は転び、顔面からアスファルトに突っ込んだ。


右の前歯が飛散した。



その頃既に私は自分のドジに慣れていて、よく転ぶこともわかっていたし彫刻刀を指に盛大に刺してしまったこともあったので、痛みに対して冷静だった。
そして何故か「学校に行かなきゃ」と思った。
冷静じゃなかったのかもしれない。


そして、私の家から5分ぐらいのところに仲の良かった友達が住んでいて毎日一緒に学校に通っていたので、そのまま彼女の家に行った。
どうでもいいが同じ名前だったので名字で呼び合っていた。元気にしてるだろうか。


今考えるとよく分からないが「折れちゃったからとりあえずティッシュで抑えていこう」という結論に二人でなり、学校にそのまま向かった。



当然校門で止められる。
慌てる先生。よく分からない私。



その日生まれて初めて救急車に乗った。



結局前歯が完全に折れていた(根元はあるが、下半分がない状態)だったので、神経を抜きセラミックかなんかで下半分を復元したらしい。
麻酔をかけられたので寝こけていたので手術のことはあまり記憶には残っていない。


下半分の前歯だが、アスファルトによって完全に砕かれていたらしく、先生方の必死の捜索もむなしく見つからなかったそうだ。

ていうか探しに行ったの、ウケるな。



私の右の前歯は今でも神経が無い。
特に不都合は生じていないが、茶渋が最近きになるのでそろそろまた歯科に行かなきゃなあと思っている。




救急車に乗ったのは今の所この一回のみである。

ツ○ヤ時代の思い出


某レンタルビデオ店で働いていたことがある。
といっても1年半くらい前までは働いていたので、そんなに昔のことではない。


中でもやはり思い出深いのはAVにまつわることだ。




①AV一気買いおじさん

新人キラーでもある、AV一気買いおじさん。
中古AVを20〜30本ほど一気に買っていく。

うちの店舗だけかもしれないが、盗難防止のために鍵(あのちょっとでてる青とか黒とかのやつ)がかけられ、そしてシールが貼られているのでまずそれらを取るのに手間取る。

さらにおじさんは「箱はいらないけどパッケージの紙はくれ」と要求してくる。これによって箱から紙を出さねばならぬという作業がプラスされる。

これが5本でも面倒だというのに20本である。
このおじさんの存在は基本的に忠告されず、皆一様に新人時代に洗礼を受けることになる。
AV5枚借りなどは別に手間がかからないのでこのおじさんに比べれば可愛いものである。

最初は衝撃を受けたがそのうち「あ、いつものね」と動揺せず、心の中でタイムトライアルを開始するようになっていた。レジのスピードが上がった。ありがとう。




②AVのシール貼り・剥がし

某店には新作、準新作、旧作という制度があり、
もちろん入ってきた時は全て新作であるため、新作シールを貼るという作業が課される。

そして期間が過ぎ準新作になったとき、貼られたシールを剥がさねばならない。

その数は一度に数百本に及び、そして定期的に入れ替わるが故にこの作業から解放されるということはない。
夜中にひたすらAVのシールを剥がしていたことは懐かしい思い出である。


一番辛かったのは妖怪○ォッチが大流行りしていた時期に、書籍コーナーのレジでこの作業をしなければならなかった時だ。
夏休み、お小遣いでコロコ○を買う小さい子の目に入らないように、エロい熟女モノのAVを隠してレジを打って笑顔で「ありがとうございました」とお見送りした。
私はやましいことをしていないのにとても罪悪感に苛まれた。地獄。全てAVのせいである。




③変なタイトルのAV


・やたらと長いタイトルのAV
やたらと長いタイトルな上に意外とシリーズ化して4まで出すな


・流行り物のタイトルをもじりがちなAV
朝ドラをもじるのはやめろ。ニッチな題材に挑戦するんじゃない、AVでやるな


・直球なAV
ババアっていれられると正直笑う



タイトルについて言いたいことは以上である。
レジで借りられても正直「ああAVだなあ」としか思わないが、変なタイトルだと二度見してしまっていた。ごめんなさい。面白いから…ごめん…。






どうでもいいが一番借りてほしいCDはインドカレー屋のBGMである。






うららかな春の午後にAVってメッチャ打ちました、さようなら。