七味をかける

日がなごろごろ

いい大人って何


学生のリミットが勝手に迫ってきて、大人から逃げれなくなってきた


なんとなく昔考えてたこととはやっぱり違うこともできてきて、お酒が飲めるからとか、夜遅くまで起きているとかそういうことは記号でしかなくて大人って何?って思うわけです。


できるだけいい大人になりたいなんて思うけど、それって自己承認されたい気持ちなのか、それとも自分にとっていい大人になりたいのかどうなのか?


たかだか人生で分かることは限られていて、真理を解き明かそうが人を殺そうが、大半の人にとっては影響は無だし他の動物にとってはなおさらだ。
自分が納得できるかどうかで自分を規定するしかないのである。





大人買いっていう言葉は大人がわりとワガママな存在ということを示している気がする。


ということをメロンを半分に切ってスプーンですくいながら考えた





残り短しモラトリアム期。

ドラマティックさえあれば


「この出来事、起こった時は面白かったんだけどな」



ということがしばしばある。
そういう時は大抵共有すべき情報が多すぎるから、他人に話すことが難しくなっているのではないかと思う。


ジェネレーションギャップという言葉があるが、世代間だけではなく普段属しているコミュニティ次第で背景知識も変わる。どういう学校に通っていたか、どういうメディアを好んで見るか、どういうファン層なのか。
そうなると当然「ウケ」も段違いに変わるのではないか。
内輪ノリなんていうのはどこでも生じるものである。もし地球外生物がいるとすれば「地球あるある」があってもおかしくない。
というか当然ですらある。


逆に言えば情報の共有や演出の仕方によってどんな出来事でも面白くなる可能性も面白くなくなる可能性もあるのである。


私はスポーツに毛ほども興味がない。
ルールが分からないし、運動も出来ないし、他に面白いと思っていることがあるので別段見る気にもならない。

ただしスポーツが好きな人に対して否定はしていない。
それなのに無理やり、例えば「野球面白いよ!」と押し付けてみよう。「なんやねん」と思う。


それは「チーズ食べれないなんて人生損してる!」というのと同義であり損か得かは私が決める問題なのであり、興味を抱かせられるだけの影響力のない方が悪い。
これが例えばゲイリーオールドマンがチーズを美味そうに食べる映画でもあれば話は別でありチーズが食べれぬことを悔やんだり、喜び勇んでチーズに挑戦するという可能性すらある。

またあるいはヒルナンデスかなんかで美味しそうな食レポでもされていたら別かもしれない。
突然核心を突きつけられると我々はついていけないが徐々に慣らしていけば大抵のことは可能になる。



もともと興味があるか、もしくは興味がないということを超える衝撃があるか、くらいしか話の面白さを測る指標はないと思う。

鉄板の話、すべらない話、そういう類のものは分かりやすさと起承転結の成立した構成によって作られており、それ故に万人に受け入れられることが出来るのではないか。

あるいはこういう「話」というものは「ハプニング」には勝てない気もする。
バカ・アホには勝てない。
彼らはいとも簡単に空気を壊し自分たちの得意分野に持ち込んでしまう。
しかしながら圧倒的に「無理」という感情が生じることもあり、それを屈服させるのが「憎めない」というキャラクターであり、憎めないバカ最強である。



とにかく輪の只中に取り込むのは文脈かそれ以上のインパクトしかないのかなと思ったりした。



卒論かかな〜〜〜〜!なにかこ!?



チーズは好きです。

やりたいことリスト

めでたく、内定がとれた。
やったよ〜〜〜〜〜〜〜〜やった〜〜〜〜〜


あと1社だけ受けて、私の就活は終わります。やった〜〜やった〜〜やったよ〜〜褒めてくれ〜〜〜〜ウオ〜〜〜〜



ということで、やりたいことリスト(〜大学卒業まで)を作りました!パンパカパーン!ワー!


  • アマゾンの欲しいものリストを順次購入する
  • 8月までに旅費を貯める
  • 突然のドライブをする
  • 美味しいものを食べに行く
  • どうぶつの森をやる
  • ドッキリを仕掛ける
  • 卒論を書いてドヤ顔をする
  • 薄い本を作る
  • 映画を山ほど見る
  • 本を山ほど読む
  • 高い靴を買う
  • 髪を染める
  • 大阪に行く
  • めちゃくちゃデカい絵を描く
  • 爪を塗る
  • 激動の水族館ウィークをする
  • 酒を飲む
  • 久しい人に会う



やりたいことやったもん勝ち!イェーイ!



追記、マスターに内定祝いでサイドカーをおごってもらった、サイコーだ

人を忘れる


バーで働いているとお客さんの名前と情報を覚える必要がある。

誰しも覚えられていればそれだけで嬉しくなるものなのだ、たとえ覚えられているのが名前だけであっても。



やっぱりよく来る人は覚えやすいし、それから変わった人も強く印象に残る。

でも、転勤であるとか、仕事が忙しいとか、逆に退職したとか、何かの都合上あまり来なくなってしまう人もいる。
そうなると段々と記憶は薄れていくのだった。



こういうのは自転車の操作と一緒で、忘れることはない。
ただし普段の生活の中で「使わない」の引き出しに入ってしまうのだった。

別にお客さんに限った話ではなくて、これは会わない人会えなくなった人とか、今しなくなってしまったこと、とかに当てはまることだ。
だから懐かしいとか久しぶりとかそういう言葉が出てくる。
しょうがないことなのだけども、少し寂しい。

used toの構文思い出した、わー使ってない頭。



ただ突然思い起こしたりもする訳で、
お風呂に入ってるときとか。寝てるときとか。
夢の中にその人が出てくるのは会いたいと思われてる証拠だったか。

今度は古文の授業を思い出してしまった、これもまた懐かしいのだった。
駿河なる 宇津の山べの うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり だ、なつかしーい!

やたらと高校の時のことを思い出してしまう、いつか大学のことも過去になるんだな。
終わってしまえば全て遠い話。

こういう記憶と違って、いつでも会えるしいつでも会えないのが人だし、自分の体は一つしかないのでとてももどかしい。
こうして会いたいおばさんと化すのだ。



懐かしい人に期間が空いて、もう一度会った時にマスターみたいに久しぶりって言えるだろうか、まるで知らない人みたいになってしまったら嫌だな。
といいつつも連絡を取るのに尻込みしちゃうこともあるし、なんと人間めんどくさいのか。
私は会いたいよ!

変わっちゃったねなんて言わないで、変わるのは当たり前だから、それは置いといて美味しいもの食べたいよ!


無性に聖歌を歌いたいし、あのダサい制服を着たいし、近くのコンビニで買い食いしたくなった。



今日はSHISHAMOちゃんの「中庭の少女たち」を聞きながらかきました、以上。

又吉くんの『劇場』を読んだ


泣くという行為はどこから生じるのか。


私の友達のYさんは映画やらですぐ泣く人である。
「そんなところで!?」「ほんとに!?」ってほどすぐ泣く。
人にオススメしやすい映画で「レオンはわりとオススメしやすいんじゃない?」といったら「神経を疑う」と言われた。泣くから見れないらしい。



私はというと映画ではあまり泣かない。
なんというか、映画というメディアは客観性が強くてあまり共感できないのかもしれない。
そして映画は立ち止まってはくれないので、泣きそうになっても次の場面になってしまう。それ故かな、と思う。

そんなんだからか主観性の強い小説ではわりとすぐ泣いてしまう節がある。ので、なるべく泣きそうなものは避けて通る。パワーを使うので。
ごはん系の小説を買いがちなのだけれど、このへんは安全である。ほのぼのめのものが多いからである。


しかしながら好きな作家の本は買う。

というわけで又吉くんの本も買う。
普通に、又吉くんは芸人としても文章を書く人としても好きなので。文章が、なんていうか、キレイすぎなくて好きなのだ。

常々思っているのが、文章化できない感情、余白にある物事が山ほどあるということだ。
ぐるぐると足掻いて、うやむやになって、なんていえばいいんだろって思うようなこと。
でもそれがなんとなく感覚として別の誰かも分かることがあって、そういう時に救われた気持ちになるのかな、と考えたり。
綺麗事ばかりではないのだ。

話を読んだり、聞いたり、見たりするときに期待することは「面白いこと」だけでは無くて、とても不思議だ。



そんなんだから読んだ時に泣かされてしまったのだ、『劇場』。

文章中にあった劇団「まだ死んでないよ」の評と同じである。なんとなくわかっていた展開だとしても、結局泣かされてしまうのである。
あと高円寺、って聞くと銀杏BOYZの「銀河鉄道の夜」出てきちゃうね。

人は説明できる行動ばかりをとるわけではなくて、そういうものがリアリティを生むのかも。

かなり具志堅用高だった。


劇場

劇場


好きなやつもはっておく。


水道の蛇口をひねれ


なんだかマンネリな気がする。
日々のことである。


別にマンネリでも全然構わないのだけど、

と言っている時点で、「けど」という言葉が出た時点で、それは大概の場合満足していないのではないか。


いろいろあがいたところで環境には適応するもので、そして安定したと同時に不安も不満も出てくるものなのだなあと思う。




ところで最近「トリコ」を読んだ。
昔「絵柄が無理」と言って敬遠していたが全然読めたしむしろ面白かった。


たいていの場合ザ、少年漫画の主人公は「やりたいことは何か」ということには葛藤しない気がする。
もっと大きなあれやこれやに悩まされては成長してキラキラと輝いている。


何もない日常が大好きであると同時に、隕石が落ちてきたら?ゾンビが大量発生したら?魔法が突然使えたら?謎の組織に連れ去られたら?と考え非日常に憧れてしまうのは結局飽き性もしくは逃避ということなのか。


おそらく彼らが葛藤していても私の葛藤と質が違うのは彼らは「やっているのにできない」で私は「やっていない」からである。




面接で「今まで一番辛かったことはなんですか」と聞かれた。
一番辛いなんていうわかりやすい困難がないからこそ人生が辛いのでは?


就活全部失敗しちゃっても面白いな、なんて考えてしまうのはそういうところかもしんない。

だいたいのことはネタだ。



挑戦ということが乏しい人生だった。
「なんとなく」中学受験をして、「なんとなく」指定校推薦で大学に入って、「なんとなく」アルバイトとサークルを決めた。

主体的に動くことがとても苦手で、でも大体のことをこなせる能力はあった。
任された仕事の中で成果を出すということは得意な方だった。


もっと出来るんじゃないかって、もっとやることがあるんじゃないかってまあないものねだりなんだけども。思ったよりも自分はその程度の人間であることを自覚すべきだ。


高校時代の恩師の言葉を思い出す。
卒業旅行で友人二人と、その先生とネパールに行った時の話だ。
帰国の前に、「ネパールを見て、どう思ったか」と問われた。
よく覚えていないけれど、ありきたりなことを言ったと思う。
先生は「それは君の言葉ではない、優等生の答えだ」というようなことを言っていた。
その人はずっと「自分の頭で考えろ」、と教えていたし「分からなければ動け、動かないと何も分からない」、と言っていた。
ずっとそれは記憶に残っている。



美術部に入っていた時のことも思い出す。
部活ではクロッキーという五分から十五分程度で人物デッサンをする、という時間があった。
その時に先生は「時間は自由に使っていい、視点を変えてみて別のところからみるのも、形を掴むには必要だ」と言っていた。
現状打破したいならその場で考えててもどうにもならんのかも、と思ったり。



インスタント沼という私が邦画で一番好きな映画があるのでよかったら見てみてください。

このくだらない日常を洗い流すのである。以上。

掘り起こされる謎の言葉たち


久々にevernoteを開いた。
なんとなく使わなくなってしまっていてから二年くらい経っていた。



当時は結構いろいろメモしてたんだなあ。





だけど一言だけメモするのほんとどうかと思う。
行きたいのか?多分いぬごいみさきじゃなくて犬吠崎だし…


ていうかいろんなところにメモしすぎだ。



これはツイッターの下書き欄


欲望に忠実すぎる




これはメールの下書き欄



ジャガイモのくだりがマジで意味がわからない


なんとなくメモしたものは大抵その場でしか覚えておらず、ただただ見つかった時に戸惑いが生じるばかりである。

スマートフォンにはいっているものだけですらこうなのに、過去のノート、昔のブログでも漁ったらどうなるのだろうか。死が訪れそう。ていうか今もあるのか?



しかしながら懐かしさを感じ消せないのも事実である。


こうやって謎の言葉は積み重なっていく。