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七味をかける

日がなごろごろ

名前をつけるという行為


観葉植物を買った。



というかうちのふかわりょう似のジャミラ(彼氏のことです)へのクリスマスプレゼントなのだが、年末年始彼はバックトゥー長野県であるので、結局私が水をやっているのである。

なんで買ったかというと、完全に衝動のせいだ。
「クリスマスプレゼント買ってねえなあ、なんかいい感じの雑貨屋あんなあ、嬢ちゃん、随分とかわいいじゃねえか!うちの子になるか!?」みたいな感じである。

うちの母も植物がすきで、やたらと育てていて、よくもまあ気力が続くもんだと思っていたのだが、歳を経るとそういうことに興味が湧くのかもしれないと思った。閑話休題

それはそれとして、観葉植物には名前をつけなければならない。ぬいぐるみと観葉植物には名前をつけると相場が決まっている(私の抱き枕のぬいぐるみにはうさ太郎という名が付いている)。

名前をつけると当然愛着が湧く。
あだ名をつけるという行為もそうだが、一気に「内輪感」「自分のもの感」「特別感」が出るのである。言葉には力があるので、そのものの姿をハッキリと映し出すようになるのだ。名は体を表す。

さっきアメトーークを見ていたのだけれど(うちには積み重なった五年分の録画のアメトーークが存在する)、有吉先生が品川さんのことを「おしゃべりクソ野郎」と称した途端に品川さんは「おしゃべりクソ野郎」になったのだと思う。
そして「どうした品川」で「品川さんて韓流みたいな髪型してた!どうかしてた!」となる。

行為にしてもそうだ。
またアメトーークの話になるが、その中でも私は「ひとり暮らし長〜い芸人」が大好きで、この会では「寝室殺し」「酔いどれアマゾン」「フローリングオンザライス」などといった特殊なワードが多用される(詳しくは見てほしい、めっちゃ面白いから)。
「一人暮らしあるある」を必殺技みたいに言うのだ。
要はほとんど言葉のまんまなんだけれども、みんな最初聞いたときは、「えっ!?」と反応する。耳慣れないワードだから。

でもワードを作った途端、それは人の認識下に置かれる特殊なものになるのだ。
理解できるけれども言葉になっていなかったものが言葉になり、それについて理解し、アハ体験というのか、ストンと落ちたように「あーそれね!」「なるほど!」となる。「分かる」。

だから名前は重要だ。
言葉は人の心に爪痕を残すし、固有の名称をつけた途端にそれはそれでしかなくなる。代替不可能な「個」になる。

私はポケモンにも名前をつける派だ。楽しいぞ。




という訳で今日もまっちゃん(品種、ガジュマル、正式な名前、マツバ)の世話をしに行かなければならない。
すくすく育てよ。