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七味をかける

日がなごろごろ

水道の蛇口をひねれ


なんだかマンネリな気がする。
日々のことである。


別にマンネリでも全然構わないのだけど、

と言っている時点で、「けど」という言葉が出た時点で、それは大概の場合満足していないのではないか。


いろいろあがいたところで環境には適応するもので、そして安定したと同時に不安も不満も出てくるものなのだなあと思う。




ところで最近「トリコ」を読んだ。
昔「絵柄が無理」と言って敬遠していたが全然読めたしむしろ面白かった。


たいていの場合ザ、少年漫画の主人公は「やりたいことは何か」ということには葛藤しない気がする。
もっと大きなあれやこれやに悩まされては成長してキラキラと輝いている。


何もない日常が大好きであると同時に、隕石が落ちてきたら?ゾンビが大量発生したら?魔法が突然使えたら?謎の組織に連れ去られたら?と考え非日常に憧れてしまうのは結局飽き性もしくは逃避ということなのか。


おそらく彼らが葛藤していても私の葛藤と質が違うのは彼らは「やっているのにできない」で私は「やっていない」からである。




面接で「今まで一番辛かったことはなんですか」と聞かれた。
一番辛いなんていうわかりやすい困難がないからこそ人生が辛いのでは?


就活全部失敗しちゃっても面白いな、なんて考えてしまうのはそういうところかもしんない。

だいたいのことはネタだ。



挑戦ということが乏しい人生だった。
「なんとなく」中学受験をして、「なんとなく」指定校推薦で大学に入って、「なんとなく」アルバイトとサークルを決めた。

主体的に動くことがとても苦手で、でも大体のことをこなせる能力はあった。
任された仕事の中で成果を出すということは得意な方だった。


もっと出来るんじゃないかって、もっとやることがあるんじゃないかってまあないものねだりなんだけども。思ったよりも自分はその程度の人間であることを自覚すべきだ。


高校時代の恩師の言葉を思い出す。
卒業旅行で友人二人と、その先生とネパールに行った時の話だ。
帰国の前に、「ネパールを見て、どう思ったか」と問われた。
よく覚えていないけれど、ありきたりなことを言ったと思う。
先生は「それは君の言葉ではない、優等生の答えだ」というようなことを言っていた。
その人はずっと「自分の頭で考えろ」、と教えていたし「分からなければ動け、動かないと何も分からない」、と言っていた。
ずっとそれは記憶に残っている。



美術部に入っていた時のことも思い出す。
部活ではクロッキーという五分から十五分程度で人物デッサンをする、という時間があった。
その時に先生は「時間は自由に使っていい、視点を変えてみて別のところからみるのも、形を掴むには必要だ」と言っていた。
現状打破したいならその場で考えててもどうにもならんのかも、と思ったり。



インスタント沼という私が邦画で一番好きな映画があるのでよかったら見てみてください。

このくだらない日常を洗い流すのである。以上。