七味をかける

日がなごろごろ

又吉くんの『劇場』を読んだ


泣くという行為はどこから生じるのか。


私の友達のYさんは映画やらですぐ泣く人である。
「そんなところで!?」「ほんとに!?」ってほどすぐ泣く。
人にオススメしやすい映画で「レオンはわりとオススメしやすいんじゃない?」といったら「神経を疑う」と言われた。泣くから見れないらしい。



私はというと映画ではあまり泣かない。
なんというか、映画というメディアは客観性が強くてあまり共感できないのかもしれない。
そして映画は立ち止まってはくれないので、泣きそうになっても次の場面になってしまう。それ故かな、と思う。

そんなんだからか主観性の強い小説ではわりとすぐ泣いてしまう節がある。ので、なるべく泣きそうなものは避けて通る。パワーを使うので。
ごはん系の小説を買いがちなのだけれど、このへんは安全である。ほのぼのめのものが多いからである。


しかしながら好きな作家の本は買う。

というわけで又吉くんの本も買う。
普通に、又吉くんは芸人としても文章を書く人としても好きなので。文章が、なんていうか、キレイすぎなくて好きなのだ。

常々思っているのが、文章化できない感情、余白にある物事が山ほどあるということだ。
ぐるぐると足掻いて、うやむやになって、なんていえばいいんだろって思うようなこと。
でもそれがなんとなく感覚として別の誰かも分かることがあって、そういう時に救われた気持ちになるのかな、と考えたり。
綺麗事ばかりではないのだ。

話を読んだり、聞いたり、見たりするときに期待することは「面白いこと」だけでは無くて、とても不思議だ。



そんなんだから読んだ時に泣かされてしまったのだ、『劇場』。

文章中にあった劇団「まだ死んでないよ」の評と同じである。なんとなくわかっていた展開だとしても、結局泣かされてしまうのである。
あと高円寺、って聞くと銀杏BOYZの「銀河鉄道の夜」出てきちゃうね。

人は説明できる行動ばかりをとるわけではなくて、そういうものがリアリティを生むのかも。

かなり具志堅用高だった。


劇場

劇場


好きなやつもはっておく。