七味をかける

日がなごろごろ

観光と物語の親和性

レポート供養シリーズ。




観光は果たして「どこかへ行く」だけのものであろうか?

いや、そうではない。現代では、観光研究のジャンルも心理、経済、社会現象、と多岐にわたる。その一角に土産話分析がある。我々は観光現象をただ「行って楽しむ」というだけではなくて「旅行体験を共有する」(=土産話)という手段をもっても消費しているのだ。自明の理ではあるが何かを伝えるという手段として伝聞があり、土産話はコミュニケーションとして自己承認欲求を満たすと同時に他人に観光を疑似体験させ、また旅行動機を喚起させる要因にもなり得るのである。

そのような観点から見ると、物語をはじめとするエンターテインメント媒体はたとえその目的で作られていないとしても土産話と同じ効果を発揮するのではないか、と考えられる。


まず第一に物語は聖地巡礼・歴史の追体験としての観光という事例を生じさせる。日本において観光の発露はお伊勢参りなどの巡礼とも言われており、古くからある観光の形である。その土地の縁起、造詣を知ることでより深く我々は旅行に没頭し世界観に入り込むことが可能になる。

次に物語は「過去への旅行」という本来ならば不可能であることを可能にするという点を挙げたい。現代ではエンターテインメントとして分かりやすく旅が提供されていることがしばしばだが(テレビ番組・体験記等)、時にはそこに嘘・誇張が含まれる。我々はそれを傍観者・観客という立場で享受し、ある種全てを把握できる視点でそれを楽しんでいる。それは実際の旅行より秀でているることも多い。実際に起こらぬことが起こったり、語りの時系列を変えることで一番面白い順序で提供するからである。要は「美味しいところだけ」楽しむことができるためだ。


そして物語は我々に語りかけていくだけではなく、新たな物語を作っていくということも主張したい。
前述の通り、聖地巡礼という形で我々が観光を行う。現代ではこのような体験を発信することは容易である。その時、感情や新たな発見あるいは解釈が生まれる。それは蓄積されて情報として次の人へ受け継がれていく。
また行動することだけではなくて想像で続きを作ること、あるいは他のものと組み合わせることも新たな形だ。二次創作というものが昨今ではメジャーになったが、我々は元の世界観・背景が共有されていることでさらに世界を広げていくことができる。

このように物語は「何かを伝える」作用が大きいために、観光という手段においてもそれは例外ではないことが明らかである。そのような意味で言えば物語は過去の人々の旅行記であり、その名跡であり、そして我々の旅の出発点なのである。