七味をかける

日がなごろごろ

したがき大特価感謝セール


徐々に大学を卒業したことを受け入れ始めている。
五月になったところで下書きを一斉処分します。



1
この間テレビでメドベジェワが願いが叶うなら何がいい?と聞かれ、「2人にロシア語を喋らせたいわ!」と言っていてカワイー!と思ったが、そのあとお返しとばかりにその子が「足が治るように……」(と言っていて思わずそば屋で涙ぐみかけた。涙腺がゆるすぎる。恥じるべき。
わさびが効いていたということにしたい。




2
電車に乗っている時が一番物事を考えている気がする。
小中高と電車にあまり乗らずに生きてきたが、大学で僻地に飛ばされ、あの無為な長いただ揺られている時間を得た。
雑音と他人によって空間ができているので、そして行動が限定されることによって思考の海にダイブ、というのがいつもの流れである、そして恥ずかしながら乗り過ごす、というのもまたいつものことである。
願わくば他人が何を考えているのかも知りたいところである。とまた電車で考えている。



3
最近同居人は花粉症になったが「風邪が重症だ」と主張し続けている。
バーで働いていた時客が「俺は風邪じゃないと思った時から風邪にかからなくなった」と意味のわからないことを言っていたが、病は気からとも言うのであながち間違いでもないのかもしれない。
認知しなければ事象はない、が恥ずかしいやつだなあという感じもする。
開き直りというのはある種潔いようで、どこか滑稽だ。はたから見てる分にはおもしろい。




4
チャットモンチーがすきである。
そうは思うもののなんとなくそう言えない、断言しづらいのは何故なのだろうか。「もっと好きな人いるだろうなあ…」と思ってしまうからなのかもしれない。詳しくない自分が恥ずかしいからなのである。
「かなあと思う」「かもしれない」というのが口癖なところからして、自信のなさが見て取れる。
だいたい、言ったもん勝ちの世の中なのだから正々堂々としていればいいのに、とは思うものの他人の目を気にしているのだからうまくいかないものである。


5
同期に「カフェっていうより喫茶店って感じだよね」と言われた。
悪い評価、ではないが、良い評価でもない気がする。カフェにいないということはつまり王道ではないということだ。定義が違うから。
実際カフェよりも喫茶店が好きだが、そこに「カフェを選ばない私」という意識は存在しない、とは言い切れない。確固とした信念があるわけでもない。
それを言い当てられたようでサブカルクソ野郎と言われたようでとても恥ずかしい。的を得ているのだけども。






最近の気づきは、どんなに悪ぶっててもくつ下が小綺麗な奴は実際ワルにはなれない、です。

おわり。