七味をかける

日がなごろごろ

◼️

駆け足にまとう温度があがる日に

雨降りにきいろ一輪咲かせてる

階段を降りれば違う線が待つ

発車音耳に混じるは波の音

つま先が凍らないからデートしよ

鍋のそばぬいぐるみたち暖を取る

すりきりで溢れた砂糖降る雪と

なみなみの曲がった線を追いかけて

はるが去る毛先にのこるふゆのいろ

とびきりのワンピース着て待ってるね

◼️

足伸ばしはみ出る足も僕のもの

飲み干せぬ言葉突きつけ溝を掘る

寝過ごした先にあるはず知らんけど

ときめきをマッチポンプであわててる

ちかづくの雨雲、頭痛、君の声

床下にロマンチックは眠ってる

広告が歌う愛でも構わない

ちりばめてきらきらひかる春嵐

ポケットさがしても鍵ない何もない

はみでてる葱で今日はなに作る

杯空けてよぎる予感を無視するの

まるくても四角くっても構わない

残り物のカレー


母は冬至に必ずかぼちゃの煮物を作るような人である。決まり事を大事にする人なのだ。

そういうわけで、実家のカレーといえばビーフカレーだった。角切りの牛肉に、乱切りのにんじんと、くし切りの玉ねぎ…実にパッケージ通りのカレー。少しばかり変わっているところといえば、じゃがいもの表面はカリッと香ばしく焼かれていて、後から好きな分だけ追加する式をとっていたところか。


そのようなご家庭事情もあり、私の中では結局王道のカレーが一番おいしい…のだが、意外と王道のカレーは面倒くさい。
まずジャガイモを剥かねばならない。面倒だ。にんじんの皮もだ。面倒である。玉ねぎは切るだけか、と思いきやそこそこ炒めて曖昧な飴色とかいう基準に従う必要がある。勘弁してほしい。
そして少しばかり、いや、それなりに牛肉は高い。
家を出てから二年、牛肉を買ったことは両手で数えられる程度しかない。パッと何を作るか迷われる牛肉よりも、とっつきやすい豚こま、鶏肉各種に手が伸びると言うのは自然な話である。何より安い。
そう言うわけでパッケージに記載されているアイツは幻想カレーなのだ。

まあ、そうは言ってもカレーのルーはその企業努力によってそのお安いお肉であろうがなんだろうがそこそこの味に化けることができる。ありがとう、ありがとう…。
ナスとトマトとピーマンがあれば、夏野菜カレー。そんな時は豚こま肉が合う。
ヨーグルトの賞味期限がきれていれば、バターチキンカレーを作るのもいい。
冷蔵庫にある大抵のものをカレーは受け入れてくれる。



話は変わるが、一年前は恋人と住んでいた。
色々な経緯を経て別で暮らすことになり、冷蔵庫の中には中途半端に色々なものが余った。最後の最後に残っていたのは、たまねぎ、長ネギ、キャベツ、塊のベーコン…。
引越しを控えて、もうフライパンもしまってしまい、鍋一つと器が二つ。食材たちを捨ててしまってもよかったのだが、貧乏性の私は全部を煮込んでカレーにすることにした。とにかくその時はもうなんでもいいわ、という気持ちがあった。きざんで、いためて、煮込んで。

輪郭のはっきりしないカレーはあまり美味しくなかった。
「キャベツはあんまりあわないかも」と少し苦笑いだったのを覚えている。慌てて、おいしいと取り繕っていたのも覚えている。
だから、いまでも残り物で作ったカレーは引っ越しの日を思い出させる。




彼が作れる三つの料理がある。三つしかない。
鍋、チャーハン、カレーである。
しかもそのカレーも、王道のカレー。じゃがいも。にんじん。玉ねぎ。
転職中の彼はお金がないので自炊をしている。
だからきっとその三つは登板していることだろう。

それでもやっぱり次に作るならば、やっぱり、王道のカレーを食べさせてあげたいなと思っている。

たとえる

『たとえる技術』というせきしろさんの本を読んだ。

比喩についての作例と、その思考法を書いた本。
端的に言えばそれだけ。

ですが、読んでいると自分も例えを考えたくなってくるので200頁くらいの本の割に読むのに時間がかかる…
というようなことを解説(取説?)の高橋源一郎も書いていた。


極論大抵の創作物は比喩で出来ているように思う。

電車が走っている。これでは事象だけだ。

夜を切り裂くように電車が走っている。
他人事のように電車が走っている。
赤子のゆりかごのように電車が走っている。
鍋でじゃがいもが茹でられているように電車が走っている。

では、これを小説にしたら?コントにしたら?絵にしたら?あるいは、話のネタにでも…ひとりで連想ゲームするのは、旅に出ているようで楽しい。


◼️読んでる途中に読んだ川柳など


ジェンガだと本を重ねて嘯いた

結局は愛を信じて押し切った

とっととその焼きそばパンよこせよ

お魚の天国たぶんここじゃない

ふとんからうさぎ飛びでる追いかける?

室内に洗濯物が実っている

中身には見合わぬサイズの箱が来た

あんぱんは確かお前が好きだったよな

頁には他人の残した犬の耳

瞬きの合間に君を盗むから

下げられた皿には神が取り残され

素知らぬ顔して優等生のふり

鏡には見知らぬ顔の私がいる

喧騒でヒットチャートが恋してる

僕からは引っ越し祝いに投げキッス

一番間抜けな死に方考える

ユニクロの服くらいよく見る顔だ

目の中に入った丸太そのままで

割れた音がしゃべる昔話たち

さんざめく服たち、春に連れ出して

◼️

何も出来ん腕に猫乗せ言い訳を

吹き飛ばせ全部だ全部ドライヤー

元気ない時は餃子のモノマネを

出来るなら猫の額に部屋借りる

頭ではポテトサラダを作ってる

気まぐれで愛と平和の板ばさみ

つばきの名「冬」と名付けてほくそ笑む

揚げてやる肉のついでにこの世もな

いちごみたいな存在になりたいな

波の音は人混みの中にも似て

からあげを作れば全て解決だ

まつ毛の上では天使がふざけてる


元気が出ないので暗い話をつらつらとかく


大学の頃友人と好きなアーティストを「好きだ」と言いづらいという話をした

その時私は椎名林檎チャットモンチーが「好き」だった
だけど本当に好きな人に比べたらライブも見に行ったことがなくて、アルバムを全部聴いているわけでもなかった
私にとって音楽は食べ物のようにそばにあるものでいて、偏執的にはなってはいないもので、
ともかく、どこかしら外様のような仲間外れのような気持ちを抱えていた


おんなじようなことに、ピアノがある
小一から大二までピアノを習っていた
年下の子がどんどん上手くなっていって、同じ時期に始めた子や年上の子達は受験や他の何かを理由に辞めていった(人は変わるものなので)

気づけばただなあなあに続けているだけの私がいた
レッスンに行くのもサボっていたりして、本当に良くない生徒だったと思う
それでも、ピアノは好きだったのだ

結局のところ、怠惰で、面倒くさがりで、格好悪い性質があるという話だ
本気を出したところで報われるかわからない
好きになったところで、ずっと追い続けるのはパワーがいる
それならば、少し距離をとる方が言い訳もできて責任を負わなくていいから楽なのだ

少しだけその所謂逃げる癖のようなものはマシになったかもしれないが、
逃げない人間を見るとやはり羨ましくなる
どこからそのやる気や自制心は来るんだろうか


全能感と無力感なんてものは交互にくるものだから、
というふうにどこかで折り合いをつけるしかないのだ


海の音を聞いている

大抵の人間は親しくなると距離感が縮まる
それはよくもあり、わるくもある
私は他人のことの方が多分、許せる人間だ
近しい人の方が許せなくなっていって、理不尽にも「なんでわかってくれないんだろう」というような気持ちが出てきて、悲しくなってしまうのだ
放っておいて欲しくて、たまには、近くに来て欲しいのだ


そういうわけで何も聞こえないようにイヤホンをえい、と耳におしこんで、押入れの中で決定的な何かを探している、
耳が痛くなっても。

朝まで騒いで眠った


自分のことを伝える、他人のことを知ることは隔たっているから美しくかんじる


1.
たくさん過去に見ていたかったコンテンツや、昔からきっと好きになれた人というのものがある
一方で自分の中で確かに好きなのに言うと少し恥ずかしくなってしまうものがあって、ただもっとそれを好きと言わないことはそのものに対して申し訳ないという気持ちになる
オタクではない人にオタクが好きだと言われて複雑になってしまって私は変な顔をすることしかできない

他人のことの方がうまく受け入れられることもある



2.
好きな聖書の一節に、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というものがある
そして、そのあとに「隣人を愛しなさい」と続く。

たくさんの受け取り方があると思うけれど、これを思い浮かべるとき私は他者が違うものであって同じものであるということを感じる
教会にいるときのように晴れやかで静かな気持ちになる



3.
最近ドニー・ダーコという映画を見た
そのなかで、起きた物事、例えば「いたずらをした」ということには一つの感情のグラデーション(映画内では愛と恐怖)だけでは測れないということを主人公は言っている
物事を簡単にすることは必要で少し寂しい


4.
ファイトクラブも見直した
正しさは何かということを突きつけられるときは大抵、葛藤と受容(もしくは昇華)が描かれる
自分の身に起こってもそういうプロセスをたどる気がする

それはそうと、サブリミナル効果とフラッシュバックは脳内で同じように処理されている感覚があるな



5.

「瞬きが多いね」といわれた

さらにいうと、「考え事をしているときに特に多い」そうだ
本当に突然言われるようになったのだが、全くもっていつからなのか記憶がない

むかしは「目を合わさないね」と言われていた
今もあまり目を合わせることはできないが、仕事の時だけやむなく人の目を見るようにしている


そのときの全てを記録しようとして、大仰にまぶたを閉じることがある

まぶたを閉じることはシャッターを切ることだ
大きななにか、うまく言い表せないものに出会ったとき
普段より少しだけまぶたを長く閉じてそれをとどめようとする

あさ、うすい水色ともも色がまざったような景色を見るとき、わたしはまぶたでシャッターを切る




寝ることが好きだというそれだけでつけたスヤリという名前は結局結構気に入っている


今日は「時には昔の話を