七味をかける

日がなごろごろ

熱から覚める大学生

私は中1の初期からオタクへの道を邁進した。オタクというか腐女子への道。

今は大学三年生になる。
その当時の同年代の皆々様には心当たりがあると思うが、中1、腐女子になりたての私は「復活」をメインフィールドにしていた。もともと絵を描くことが好きだった私は漫画研究部に入り、同級生に絵を見せつけ、黒歴史を量産させた。中高一貫女子校には止める者などいない。それは加速されるばかりであった。推しの誕生日を祝い、カラオケでキャラソンを熱唱し、本誌の展開に一喜一憂し、二時創作小説で切なさに泣いた。今ではいい思い出である。

彼らをネットで検索しまくっていた時期がもはや懐かしい。私にとって「クフフのフ」「咬み殺す」は死の呪文であり、未だに数字の文字列に彼らの面影を見る。お小遣いをはたいて買ったボンゴレリングは、今も綺麗に箱に保管されている。

その後私の戦場は世界を擬人化するジャンルに移り、ナマモノに手を出しつつ、最終的に忍者の卵を愛でるところに落ち着き、ツイッターの腐垢でそれなりに活動をし、高校を卒業した。

それで何が言いたいかというと、今の私には当時の熱量がない、という話。
確かに今も某イラスト投稿サイトを見、布団で転がる、くらいのことはする。だが、あの頃のように、「描いてみよう」とはならない。腐垢で呟いたのはもう数ヶ月前だったか。毎日六時十分に実況をしていた私はどこへ行ったのか。この違いはどこから来たのか。今も確かに、かつての彼らにも、あの人気ジャンルの六つ子たちにも、胸がときめくのに。

この現象は私にだけ起こったものではないようだった。漫研部長のHにも、ネッ友のSちゃんにも、というか一般論ですらあるようだった。大学生になると、一定の層が二時創作から、ひいてはそのジャンルから離れていくのだ。
その理由を考えた時、思ったのであった。
私の世界は狭かったのだと。

大学生というのはわりとなんでもできる生き物だ。授業を休んでもせいぜい単位を落とすくらいで大して何も起こらないし、アルバイト、サークルに打ち込むも自由であるし、恋愛にうつつを抜かすということも可能だ。夜の街に繰り出すことも、海外に旅行に行くことも、圧倒的にハードルが低くなる。それでいて社会人よりも時間が溢れている。自由度が高すぎるのだ。

私は当たり前のように髪を染め、当たり前のように化粧をし、「普通の女の子」になった。

人間の能力は限られている。稀に「お前いつ寝てんの」ってくらい色々する輩もいるが、普通の人間は思ったより何も出来ないものである。したいことはたくさんあっても手は追いつかない。そうなるとハードルの低い所から跳んでいくのだ。私にとって、「二時創作」は大好きな娯楽だったし、今でも興奮すると早口になってしまうし、オタク根性は染み付いていると思う。そうだけれど、ある意味二時創作は能力が余っていたから、私はそこで力を発揮しようとしたのだと思う。

この流れでロアルド・ダールの名を出すのはとてもははばかられるのだが、「マチルダは小さな大天才」という本がある。超天才児マチルダちゃんは、とても高い能力を持つにもかかわらず、不遇の扱いを受けたりするのだが、そんな横暴な大人達に痛快な仕返しをしたり、マチルダに理解を示す担任のミス・ハニーと親交を深めたりする、個人的に大好きな本だ。

この話の中で、マチルダは途中、超能力を使えるようになる。なんやかんやでまあそれによって問題を解決し、高学年と一緒に勉強をするようになり、元気に暮らすのだが、超能力は失われてしまう。マチルダは「何故私は超能力を使えたのかしら」と疑問を持つ。ミス・ハニーはそれにこう答えるのだ。「あなたは能力が発揮できる場が今までなかった、だからそれが押し込められて超能力として発散されたのではないか」と。

二時創作もそういうものなのではないかと思う。
あの頃の私も井の中の蛙だった。押し込められていた欲望は、有り余る力は、二時創作として力が振るわれた。私は大学に入ってそれなりに忙しく、それなりに楽しい日々を過ごしている。その中で創作しようとすることは、なかなかハードルが高いことなのだ。だから逆に、例えば社会人になって思うようにできず二時創作へ走る人もいるんじゃないかな、とも思う。

なんだかでももったいないから、一度くらいイベントに出たいな、なんて思った。私の恋した彼らは今でもそこにいる。熱が失われても、私は一生オタクで腐女子なのだ。