七味をかける

日がなごろごろ

ドラマティックさえあれば


「この出来事、起こった時は面白かったんだけどな」



ということがしばしばある。
そういう時は大抵共有すべき情報が多すぎるから、他人に話すことが難しくなっているのではないかと思う。


ジェネレーションギャップという言葉があるが、世代間だけではなく普段属しているコミュニティ次第で背景知識も変わる。どういう学校に通っていたか、どういうメディアを好んで見るか、どういうファン層なのか。
そうなると当然「ウケ」も段違いに変わるのではないか。
内輪ノリなんていうのはどこでも生じるものである。もし地球外生物がいるとすれば「地球あるある」があってもおかしくない。
というか当然ですらある。


逆に言えば情報の共有や演出の仕方によってどんな出来事でも面白くなる可能性も面白くなくなる可能性もあるのである。


私はスポーツに毛ほども興味がない。
ルールが分からないし、運動も出来ないし、他に面白いと思っていることがあるので別段見る気にもならない。

ただしスポーツが好きな人に対して否定はしていない。
それなのに無理やり、例えば「野球面白いよ!」と押し付けてみよう。「なんやねん」と思う。


それは「チーズ食べれないなんて人生損してる!」というのと同義であり損か得かは私が決める問題なのであり、興味を抱かせられるだけの影響力のない方が悪い。
これが例えばゲイリーオールドマンがチーズを美味そうに食べる映画でもあれば話は別でありチーズが食べれぬことを悔やんだり、喜び勇んでチーズに挑戦するという可能性すらある。

またあるいはヒルナンデスかなんかで美味しそうな食レポでもされていたら別かもしれない。
突然核心を突きつけられると我々はついていけないが徐々に慣らしていけば大抵のことは可能になる。



もともと興味があるか、もしくは興味がないということを超える衝撃があるか、くらいしか話の面白さを測る指標はないと思う。

鉄板の話、すべらない話、そういう類のものは分かりやすさと起承転結の成立した構成によって作られており、それ故に万人に受け入れられることが出来るのではないか。

あるいはこういう「話」というものは「ハプニング」には勝てない気もする。
バカ・アホには勝てない。
彼らはいとも簡単に空気を壊し自分たちの得意分野に持ち込んでしまう。
しかしながら圧倒的に「無理」という感情が生じることもあり、それを屈服させるのが「憎めない」というキャラクターであり、憎めないバカ最強である。



とにかく輪の只中に取り込むのは文脈かそれ以上のインパクトしかないのかなと思ったりした。



卒論かかな〜〜〜〜!なにかこ!?



チーズは好きです。