七味をかける

日がなごろごろ

夏がはじまる


黒い服を着ていたところ、飼い犬がこれでもかと私にすり寄ってきて結果毛だらけになった。


さらにその状態で犬は身震いをし払われた毛が私の顔へ降り注いだ。


毛、抜けすぎでは?



ともかくとして、そんな犬の換毛に夏という季節を感じている。

足首を出していたらやたらと蚊に刺されたり、
汗がやたらと気になったり、クーラーを効かせすぎてやたらと寒い電車にキレたりしている。

私は今日誕生日を迎え、22歳になり、平成7年7月7日生まれであるのでポーカーでいえばフルハウスでそこそこつよい役となるのではないかなどと考えたことは傍においておくが、


ここが今日主張したいことで、「誕生日があること以外に夏の利点が少ないのではないか?」という話である。
というか私は誕生日があるからいいが、無い人も多数であるし、それどころか夏休みに誕生日が被る人は祝われにくいのでむしろマイナスだ。



小学生や中学生の頃こそ夏休みは待ち望まれるものだった。
プール、クーラーの効いた中でのゲーム、一日中ごろごろしてすごすこと、夏祭り、かき氷で舌が変な色になる…
しかしながら夏休みは年々その存在感を無くしており、響きがイイということ以外期間においても気候においても大学生の春休みには敵わない。


なんてったって夏は暑いし、上着がないからポケットがないし、クーラーは寒いし、喉の渇きから行きの電車でペットボトル一本を消費して目的地でもう一本買わなきゃいけないし、虫は多いし、くっついてきた犬は暑いし、麦茶はおいしい。
麦茶はおいしいはプラスポイントだが逆に言えば暑いからこそプラスポイントになっているだけでプラマイゼロ、マッチポンプである。



これだけ文句を言っても夏はやって来るので、早急に対策を練らねばならない。
流しそうめん大会を実施するとか。



それでは。

観光と物語の親和性

レポート供養シリーズ。




観光は果たして「どこかへ行く」だけのものであろうか?

いや、そうではない。現代では、観光研究のジャンルも心理、経済、社会現象、と多岐にわたる。その一角に土産話分析がある。我々は観光現象をただ「行って楽しむ」というだけではなくて「旅行体験を共有する」(=土産話)という手段をもっても消費しているのだ。自明の理ではあるが何かを伝えるという手段として伝聞があり、土産話はコミュニケーションとして自己承認欲求を満たすと同時に他人に観光を疑似体験させ、また旅行動機を喚起させる要因にもなり得るのである。

そのような観点から見ると、物語をはじめとするエンターテインメント媒体はたとえその目的で作られていないとしても土産話と同じ効果を発揮するのではないか、と考えられる。


まず第一に物語は聖地巡礼・歴史の追体験としての観光という事例を生じさせる。日本において観光の発露はお伊勢参りなどの巡礼とも言われており、古くからある観光の形である。その土地の縁起、造詣を知ることでより深く我々は旅行に没頭し世界観に入り込むことが可能になる。

次に物語は「過去への旅行」という本来ならば不可能であることを可能にするという点を挙げたい。現代ではエンターテインメントとして分かりやすく旅が提供されていることがしばしばだが(テレビ番組・体験記等)、時にはそこに嘘・誇張が含まれる。我々はそれを傍観者・観客という立場で享受し、ある種全てを把握できる視点でそれを楽しんでいる。それは実際の旅行より秀でているることも多い。実際に起こらぬことが起こったり、語りの時系列を変えることで一番面白い順序で提供するからである。要は「美味しいところだけ」楽しむことができるためだ。


そして物語は我々に語りかけていくだけではなく、新たな物語を作っていくということも主張したい。
前述の通り、聖地巡礼という形で我々が観光を行う。現代ではこのような体験を発信することは容易である。その時、感情や新たな発見あるいは解釈が生まれる。それは蓄積されて情報として次の人へ受け継がれていく。
また行動することだけではなくて想像で続きを作ること、あるいは他のものと組み合わせることも新たな形だ。二次創作というものが昨今ではメジャーになったが、我々は元の世界観・背景が共有されていることでさらに世界を広げていくことができる。

このように物語は「何かを伝える」作用が大きいために、観光という手段においてもそれは例外ではないことが明らかである。そのような意味で言えば物語は過去の人々の旅行記であり、その名跡であり、そして我々の旅の出発点なのである。

いい大人って何


学生のリミットが勝手に迫ってきて、大人から逃げれなくなってきた


なんとなく昔考えてたこととはやっぱり違うこともできてきて、お酒が飲めるからとか、夜遅くまで起きているとかそういうことは記号でしかなくて大人って何?って思うわけです。


できるだけいい大人になりたいなんて思うけど、それって自己承認されたい気持ちなのか、それとも自分にとっていい大人になりたいのかどうなのか?


たかだか人生で分かることは限られていて、真理を解き明かそうが人を殺そうが、大半の人にとっては影響は無だし他の動物にとってはなおさらだ。
自分が納得できるかどうかで自分を規定するしかないのである。





大人買いっていう言葉は大人がわりとワガママな存在ということを示している気がする。


ということをメロンを半分に切ってスプーンですくいながら考えた





残り短しモラトリアム期。

ドラマティックさえあれば


「この出来事、起こった時は面白かったんだけどな」



ということがしばしばある。
そういう時は大抵共有すべき情報が多すぎるから、他人に話すことが難しくなっているのではないかと思う。


ジェネレーションギャップという言葉があるが、世代間だけではなく普段属しているコミュニティ次第で背景知識も変わる。どういう学校に通っていたか、どういうメディアを好んで見るか、どういうファン層なのか。
そうなると当然「ウケ」も段違いに変わるのではないか。
内輪ノリなんていうのはどこでも生じるものである。もし地球外生物がいるとすれば「地球あるある」があってもおかしくない。
というか当然ですらある。


逆に言えば情報の共有や演出の仕方によってどんな出来事でも面白くなる可能性も面白くなくなる可能性もあるのである。


私はスポーツに毛ほども興味がない。
ルールが分からないし、運動も出来ないし、他に面白いと思っていることがあるので別段見る気にもならない。

ただしスポーツが好きな人に対して否定はしていない。
それなのに無理やり、例えば「野球面白いよ!」と押し付けてみよう。「なんやねん」と思う。


それは「チーズ食べれないなんて人生損してる!」というのと同義であり損か得かは私が決める問題なのであり、興味を抱かせられるだけの影響力のない方が悪い。
これが例えばゲイリーオールドマンがチーズを美味そうに食べる映画でもあれば話は別でありチーズが食べれぬことを悔やんだり、喜び勇んでチーズに挑戦するという可能性すらある。

またあるいはヒルナンデスかなんかで美味しそうな食レポでもされていたら別かもしれない。
突然核心を突きつけられると我々はついていけないが徐々に慣らしていけば大抵のことは可能になる。



もともと興味があるか、もしくは興味がないということを超える衝撃があるか、くらいしか話の面白さを測る指標はないと思う。

鉄板の話、すべらない話、そういう類のものは分かりやすさと起承転結の成立した構成によって作られており、それ故に万人に受け入れられることが出来るのではないか。

あるいはこういう「話」というものは「ハプニング」には勝てない気もする。
バカ・アホには勝てない。
彼らはいとも簡単に空気を壊し自分たちの得意分野に持ち込んでしまう。
しかしながら圧倒的に「無理」という感情が生じることもあり、それを屈服させるのが「憎めない」というキャラクターであり、憎めないバカ最強である。



とにかく輪の只中に取り込むのは文脈かそれ以上のインパクトしかないのかなと思ったりした。



卒論かかな〜〜〜〜!なにかこ!?



チーズは好きです。

やりたいことリスト

めでたく、内定がとれた。
やったよ〜〜〜〜〜〜〜〜やった〜〜〜〜〜


あと1社だけ受けて、私の就活は終わります。やった〜〜やった〜〜やったよ〜〜褒めてくれ〜〜〜〜ウオ〜〜〜〜



ということで、やりたいことリスト(〜大学卒業まで)を作りました!パンパカパーン!ワー!


  • アマゾンの欲しいものリストを順次購入する
  • 8月までに旅費を貯める
  • 突然のドライブをする
  • 美味しいものを食べに行く
  • どうぶつの森をやる
  • ドッキリを仕掛ける
  • 卒論を書いてドヤ顔をする
  • 薄い本を作る
  • 映画を山ほど見る
  • 本を山ほど読む
  • 高い靴を買う
  • 髪を染める
  • 大阪に行く
  • めちゃくちゃデカい絵を描く
  • 爪を塗る
  • 激動の水族館ウィークをする
  • 酒を飲む
  • 久しい人に会う



やりたいことやったもん勝ち!イェーイ!



追記、マスターに内定祝いでサイドカーをおごってもらった、サイコーだ

人を忘れる


バーで働いているとお客さんの名前と情報を覚える必要がある。

誰しも覚えられていればそれだけで嬉しくなるものなのだ、たとえ覚えられているのが名前だけであっても。



やっぱりよく来る人は覚えやすいし、それから変わった人も強く印象に残る。

でも、転勤であるとか、仕事が忙しいとか、逆に退職したとか、何かの都合上あまり来なくなってしまう人もいる。
そうなると段々と記憶は薄れていくのだった。



こういうのは自転車の操作と一緒で、忘れることはない。
ただし普段の生活の中で「使わない」の引き出しに入ってしまうのだった。

別にお客さんに限った話ではなくて、これは会わない人会えなくなった人とか、今しなくなってしまったこと、とかに当てはまることだ。
だから懐かしいとか久しぶりとかそういう言葉が出てくる。
しょうがないことなのだけども、少し寂しい。

used toの構文思い出した、わー使ってない頭。



ただ突然思い起こしたりもする訳で、
お風呂に入ってるときとか。寝てるときとか。
夢の中にその人が出てくるのは会いたいと思われてる証拠だったか。

今度は古文の授業を思い出してしまった、これもまた懐かしいのだった。
駿河なる 宇津の山べの うつつにも 夢にも人に 逢はぬなりけり だ、なつかしーい!

やたらと高校の時のことを思い出してしまう、いつか大学のことも過去になるんだな。
終わってしまえば全て遠い話。

こういう記憶と違って、いつでも会えるしいつでも会えないのが人だし、自分の体は一つしかないのでとてももどかしい。
こうして会いたいおばさんと化すのだ。



懐かしい人に期間が空いて、もう一度会った時にマスターみたいに久しぶりって言えるだろうか、まるで知らない人みたいになってしまったら嫌だな。
といいつつも連絡を取るのに尻込みしちゃうこともあるし、なんと人間めんどくさいのか。
私は会いたいよ!

変わっちゃったねなんて言わないで、変わるのは当たり前だから、それは置いといて美味しいもの食べたいよ!


無性に聖歌を歌いたいし、あのダサい制服を着たいし、近くのコンビニで買い食いしたくなった。



今日はSHISHAMOちゃんの「中庭の少女たち」を聞きながらかきました、以上。

又吉くんの『劇場』を読んだ


泣くという行為はどこから生じるのか。


私の友達のYさんは映画やらですぐ泣く人である。
「そんなところで!?」「ほんとに!?」ってほどすぐ泣く。
人にオススメしやすい映画で「レオンはわりとオススメしやすいんじゃない?」といったら「神経を疑う」と言われた。泣くから見れないらしい。



私はというと映画ではあまり泣かない。
なんというか、映画というメディアは客観性が強くてあまり共感できないのかもしれない。
そして映画は立ち止まってはくれないので、泣きそうになっても次の場面になってしまう。それ故かな、と思う。

そんなんだからか主観性の強い小説ではわりとすぐ泣いてしまう節がある。ので、なるべく泣きそうなものは避けて通る。パワーを使うので。
ごはん系の小説を買いがちなのだけれど、このへんは安全である。ほのぼのめのものが多いからである。


しかしながら好きな作家の本は買う。

というわけで又吉くんの本も買う。
普通に、又吉くんは芸人としても文章を書く人としても好きなので。文章が、なんていうか、キレイすぎなくて好きなのだ。

常々思っているのが、文章化できない感情、余白にある物事が山ほどあるということだ。
ぐるぐると足掻いて、うやむやになって、なんていえばいいんだろって思うようなこと。
でもそれがなんとなく感覚として別の誰かも分かることがあって、そういう時に救われた気持ちになるのかな、と考えたり。
綺麗事ばかりではないのだ。

話を読んだり、聞いたり、見たりするときに期待することは「面白いこと」だけでは無くて、とても不思議だ。



そんなんだから読んだ時に泣かされてしまったのだ、『劇場』。

文章中にあった劇団「まだ死んでないよ」の評と同じである。なんとなくわかっていた展開だとしても、結局泣かされてしまうのである。
あと高円寺、って聞くと銀杏BOYZの「銀河鉄道の夜」出てきちゃうね。

人は説明できる行動ばかりをとるわけではなくて、そういうものがリアリティを生むのかも。

かなり具志堅用高だった。


劇場

劇場


好きなやつもはっておく。