七味をかける

日がなごろごろ

忙しい

 街中に分厚いコートと薄手のコートが交互に現れる。朗らかな日は差して、植物たちも上向きに葉を向けて、元気である。それでも椿の蕾はまだ小指の爪先ほどの大きさで、春まではもう少しかかるのだと思う。


 最近はといえば、バタバタしている。なんやかんやと目まぐるしい。起きる、仕事をする、ご飯を食べる、寝る。やることをそこそこサボりつつ、ヤダヤダ言いながらこなす。
 これでご飯にありついているのは確かなので、「ありがたい、ありがたい」と呪文のように唱えるが、日に日に精神か何かがすり減っているような気がする。

 それを防ぐために、100g58円の鶏胸肉の皮だけ避けておきここぞとばかりにバター醤油で食べるだとか、シャウエッセンナポリタンを作るだとか、そう言う小さな楽しみで機嫌をとってきた。しかし何にもマンネリはある。馴染み深い安心安定の実家も必要だが、たまには新しい場所に出かけてみたい。

 そういうわけで読書感想文を始めた。昔は「なぜ人に伝わるように書かなければいけないのだ」と苦手にしていたが、そもそも人に向けて書く必要はないと言うことに気づいた。なにかしらの書き物をしよう、というときに「視線を意識する」のも一つの手段なのかもしれないけれど、私がやりたいのはそう言うことではなかった。記録、記憶。誰かに見せるわけでも、誰かが採点するわけではないのだから。


 本を読んでいると考えが濁流のように押し寄せて、つい上を見る。全てが溢れていくような感覚になって、その時に思い浮かべるのはなぜか星なのだ、きらきらとした、目まぐるしく、鮮やかな。
 素晴らしいと思えることは流れ星のようにすぐ消えてしまって、掴めても一部だ。起きた時に忘れてしまう夢と同じ。ただその残り火を温めて木を足し、息を吹き込み育てることはできるのだって知っている。だから追いかけてしまうのだ。
 

 本の隙間に読書感想文を挟んで、少しだけいい気になった。
 中学生の頃、本の隙間にへそくりを隠していた。忘れた頃にそれらは見つかって、予期せぬ喜びを得たものだ。日付不明のメモ、行ったことも忘れた場所の写真、昔のノート。過去の記憶はくすぐったくて、恥ずかしくて、同時にとても温かい。

 突然記憶が繋がって、なにかの物種になることがある。乱雑に重ねた色がこの上なく美しく見えるように、そういう偶然を待ち望んでいるのかもしれない。