七味をかける

日がなごろごろ

蛇足


 真新しい部屋には、特別なもの以外何もなかった。

 2枚のCD、本が1冊、好きな映画のポスター、彼から貰った灰皿、それから椿の苔玉、それで全部。

 あとは引越し業者を待つばかりだった。CDを持ってきたはいいけれど結局流すものがないのは失敗だった。ラジオ付きの音楽プレーヤーでも探そうかな、そんなことを考えて光がさしている床に寝転がった。
 
 本の中にはたくさんの東京の地名が出てきて、それでも行ったことがない場所は多かった。
 生まれてからずっと東京に住んでいる。狭い空もどこまで行ってもキリがない同じようなビルも、ごちゃごちゃした街角もなんだかんだ好きだった。

 昔、恋人と一緒に住んでいたのは墨田区だった。引っ越した当初に「墨田区のラップを作りました」と言って徐にビートを流し始めたことを覚えている。「墨田区◯◯2-5-6」、居住地が入ったそれは、もうそこには住んでいないのに何某かで住所を記載する時に邪魔してくる厄介で、愛おしい記憶だった。そんなことももう三年前のことだった。結局、今回は一緒に住まないことになった。

 東京の曲が聴きたくなって、くるりを流した。次は、EMC、銀杏BOYZ、林檎。知っている「東京」を繋いでいく。チャットモンチーの東京はちみつオーケストラは残念ながら私には当てはまらない。上京したことがないからだ。大好きなアーティストなだけに、ちょっとしょんぼりする。それでも友達のことを考えて、主人公はきっとあの子なのだろうというようなことを思った。

 サニーデイ・サービスを聴き始めた頃、チャイムの音が鳴った。ピンポーン。昼に来るって言ってたのに、もう二時。いつも通り、彼は遅刻だ。そんな日常と新しい部屋は同時に存在していた。


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 彼は良くも悪くも全てを受け入れる人間だった。

 短い話を書いたのだ、ということは告げていた。というか、その場で書いてその場で見せた。いい気分だったから、調子に乗ったのだ。

 下校した小学生が今日あったいいことを話すように、彼には何でも話していた。ただ、なんとなく文庫本になってから他のお話は読んでほしかった。だから曲だけ聞いてよ、なんて無理強いをした。

 お話が出揃ったとき、嬉しくなって、勝手にそれぞれの話に合うようにプレイリストを作ったのだ。
 もちろん曲名がないお話もあった。だから、色々と悩んだ。ゲーム音楽の中だったらどれかな。管楽器の音色が素敵な曲があったからこれかも。パンクからのつなぎはどうしようか。この曲、好きなんだよな……。そんなことを考えながら作ったプレイリストだった。

 それらが終盤になったとき、彼が言った。
「この曲好きなんだよね」
「そうなの?」
彼はあまり洋楽を聞かないから、不思議に思って聞き返した。昔のことを思い出すように、彼が言った。
「お母さんが好きで、車で流していたんだ」
 
 話の内容を彼は知らないはずなのに、奇妙な符号におかしくなった。まるで知っていたみたいだ。
 
 刊行される本の「親父」は「おふくろ」に変わっている。それを早く伝えたいと思った。


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 やっぱり、彼女のSNSは更新されてはいなかった。
 
 こんなことはネットストーカーみたいだが、それでも知りたくなってたくさん彼女のことを調べた。どこかの記事で書いた昔のこと。askでファンの悩みに彼女の言葉で返していること。

 soundcloudに上がっている曲に気づいて、少しだけ嬉しくなった。寂しくてもこんなことで泣かないでって、彼女はいつでも言っている。


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 茹だるような暑さの中、準備を何もしていないことに気づいた。あらかた全てが揃っていている、そこは自分の部屋だった。大嘘つきの映画を見た。大学二年生、映画を特別見るようになった夏、一番好きな映画だった。最後の方だけでも面白い、なんて友人が言ったことを思い出した。魚が跳ねる。虚構と現実を行き来して、きっとほんとうのことはどちらでも構わない。 言葉を選んで、伝わるかはわからない好意を押し込める。本と栞を、一緒の引き出しにしまった。気取った儀式をしても、汗は首をつたっている。


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 高校の友人と電話をした。

 彼女は大学を卒業した後、医学部に入り直して、四月からは仙台にいた。
 いつでもゆるゆると喋るわりに、彼女は真っ直ぐ生きている。だから、うまく行かないことがあっても、なんとなく頑張れるのは彼女のおかげでもあった。

 お互いの近況、同級生がいつの間にか結婚したことなんかを話して、それから、ふと気になって電話口で彼女に問うた。
「ねえ、好きな聖歌って覚えてる?私、312番しか覚えてなくて」
「え〜番号なんて覚えてないよ」
「そっか〜……」
声のトーンが落ちたのを気にしてか、知っている歌詞を彼女が言う。
「え〜と、ガリラヤのやつとか」
「風薫る〜丘で〜だね」
「あとタリタクム……」
「少女よ、自分の足で立て」
番号は覚えていなくても独特の単語は覚えていて、私は呼応するように歌詞を口ずさんだ。
 じゃあ、きっとこれも覚えているはずだ。
「312番は、あれだってば、いつくしみぶかき〜」
「友なるイエスは〜!だ」
 彼女も、我が意を得たりとばかりに歌い出した。そこから、曖昧な歌詞を二人して歌って、笑った。

 なんだか、遠くに居た彼女がそばにいる気がした。


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 駅前にある喫茶店はごみごみとしており、気にいる喫茶店の条件どんぴしゃ、というわけにはいかなかった。それでもなんとなく、居心地のいい空間だった。

 いかにもというような少しガラのわるいおじいちゃんが二人組で座っている。語気が強いのか、ただ呂律が周りきっていないのかは判別がつかなかったが、話の内容はあまり聞き取れなかった。それに気を取られてしばらくは気づかなかったが、ふと店内のBGMに耳を傾けると「Hey Jude」だった。
 ドライカレーを食べながら、今度はおじいちゃんたちの会話はフェードアウトして行って、私は音楽に耳を傾けた。どうやら店主はビートルズが好きなのかなんなのか、それ以外は流れないようだった。思ったよりも美味しいコーヒーを飲む。

 やたらとビートルズの引用が多い文章たちのことを思い出して、もう一度読み返したくなった。頭の中にたくさんの文章がめぐる。まだ、文庫本は手元にない。でもきっと、いい本になるだろう。