七味をかける

日がなごろごろ

二次創作に原作は必要なのか

 
自己満足レポートの供養。



物語は、聞き手にとっての日常に近い、つまりリアリティがあればあるほどその話を真実らしく感じる(場合によってはノンフィクションと錯覚)。逆に非日常的なことが起こっている等、リアリティがないものはフィクションであると感じるのだ。
 二次創作は、漫画やゲームなどの原作の設定を用いて別のものを創作する行為を指す。なぜ新しい物語を創作しているのに、原作と設定が同じものであると認識できるのだろうか?本稿ではそれについて分析する。

 そもそも物語・ストーリーの大枠は以下の図のような設定で作られている。役割は大まかに4つである。

物語はときおり読者に錯覚を起こさせる。錯覚が起きないパターンもあるが、錯覚が起きる場合はたとえば空間においての歪みが生じるときである。たとえば空間の錯覚には①~③のいずれか(または複数)が知らない場合と、④が誤読する場合が考えられる。よって錯覚のパターンも大きく4つにわけられる。

① 登場人物が知らないもの
② 語り手が知らないもの
③ 作者が知らないもの
④ 読者が誤読するもの

 二次創作は作者の描いた物語(原作)を読者がその設定と登場人物を用いて新たな物語を作ることを指すため、パターンとしては③の作者(この場合は原作者)が知らないパターンとして考えることが出来る(場合によっては①や②も併用されるケースがあるがここでは割愛する)。
 読者は(この場合二次創作の読者)は二次創作を原作の延長(新しいエピソード)として受け取ることが出来る。なぜなら、二次創作では原作の設定と登場人物たちが引き継がれており、そこにリアリティがあるためである。

リレー小説なども③の作者が知らないパターンに分類することが出来るが、二次創作と違う点は、二次創作においては時間の錯覚(錯時)も生じているという点である。一般にリレー小説は物語が時系列に沿って展開され、リアルとの時間の乖離が少ない。しかしながら二次創作は必ずしもそうではない。二次創作の作者はあらゆる時間の点を抜き出し、読者はそれを平然と受け入れる。なぜだろうか?
 まずは二次創作の時系列にはどのようなものがあるかを考察したい。

① 起点が原作よりも過去にさかのぼるもの
(回想・描かれていない過去の創作等)
② 起点が原作中・はざまにあるもの
(抜け落ちている場面・日常風景等)
③ 起点が原作よりも未来・先にあるもの
(設定を用いた未来の仮定)
④ 物語と並行した時系列
(語り手の別視点、あるいは再現)
パラレルワールド
(分岐ルート、あるいはパロディ)

このようなパターンに分類できる。⑤には結果的に分岐してしまったというパターンも考えられる。原作が進行中の作品であった場合、①~④で二次創作として描いた展開が覆される可能性があるためである。二次創作は二次創作者の解釈によって描かれたものであるため、絶対に原作者のストーリーとは違ってくる(そういう意味では①~④はすべて⑤ともいえる)。だからこそ二次創作なのである。そしてだからこそ「二次創作のストーリーは原作者が知りえない」という空間における錯覚も裏付けられる。
このように二次創作においてはかならずしも原作の続きを描くわけではなく、前述のようなパターンが考えられる。すべての二次創作に共通する目的は「原作の世界観から考察し新たなものを生み出そうとする」という点である。描かれていないことを描こうとするから結果違うものが生じる。
しかしながら前述のように、時系列の如何に関わらず、二次創作を読者は原作の延長・新しいエピソードとして受け入れる。なぜなのだろうか?それは原作という世界からデータを抜き出し、再構築しているからである。原作においての設定や背景は読者の中でシェアされているものである。そのため二次創作を享受したとき、読者は「ああ、この場面だな」と解釈を行い、時系列の錯覚が起こる。既に原作の中で世界観の説明を受けているために、二次創作においてたじろぐことがないのである。
ここで「原作無き二次創作」について言及したい。いまやネットやSNSによって情報は簡単に得られるものになった。それはあらゆる情報に当てはまり、二次創作の原作に関する情報がウィキペディアや、情報検索サービスや、あるいはほかの二次創作から得ることが出来る。前者二つは情報をまとめたものであるが、我々は二次創作という本来原作の後に存在するものからも情報を引き出すことが出来るのだ。これは原作がデータベースとなって、二次創作はシミュラークルとして機能しているというようにも考えられる(あるいはデータベース消費とも説明できる)。
そう考えたとき、二次創作の読者にはたして原作は必要であるのかという疑問が生じる。結局、原作と二次創作をつなぐものは設定や世界観であり、必ずしも原作を把握している必要性はない。加えていえば、たとえその二次創作が原作と異なる点を多く抱えていても、原作らしさ・真実味があれば「○○という原作の二次創作」であるとして受け入れることが出来るのである。


続。
そのうちちゃんとつづきかこう。

ご飯に合うおかずとスマブラX


スマブラにハマっているのでごはんに合うおかずをスマブラのキャラに例えます。メモです。
時代に乗り切れてない人間なのでスマブラXのキャラです。異論は認める。


明太子。辛味と塩味の絶妙のコラボレーション。そのトリッキーでいながら、火力のある、確かな強さ。言うなればリュカ。
いくらあたりがネスだろうか。

そぼろ、ヨッシーかな。なんか素朴な顔してるし。

ポケモントレーナーは漬物。各種漬物を駆使。

コロッケ、カービィ。中身いろいろ。デデデはメンチだよ。

チンジャオロース、やめられねえ止まらねえ。突っ走るだけだぜ!という熱い感じ。フォックス。麻婆茄子がファルコ。レバニラがウルフ。

生姜焼き。完全にパワータイプ。ドンキー。

ふりかけは、かわいいけど強いから、ピクミン&オリマー。いつのまにかなくなってる感じも、ピクミンの気づいたら死んでる感じに似てる。

角煮のそのゴリゴリに重く殴ってくる感じ、ガノンドルフ。

卵はその安定感、固定ファン層、国民的人気、そしてタイマンでも、乱戦でも力を発揮するオールマイティさから、ピカチュウ。黄色いし。

カレー。圧倒的王道。嫌いな人はいない。子供も大好き。マリオ。ハヤシライスが弟。割食ってる感じするしな。おかずじゃねえ?うるせえな!

ごはんですよ、はMr.ゲーム&ウォッチ。黒いし。


お前は何をやってるんだ。
残りのキャラ募集中。

写ルンですが3台目に達した


写ルンですの良さはやはり撮ってからのギャップがあるところだ。

大体において現像する頃には何を撮ったかを忘れがちである故に、何を撮ったっけ、というワクワクがある。そうすると、予想外にうまく撮れていたり、そうでなかったり、どちらにしても楽しみがある。また、本当に失敗していて完全にグレーになってしまっているパターンもある。



思い出せない記憶のようでこれもまた一興、である。


夜の写真はフラッシュを焚くとこんな感じになる。

今はスマホでもそれなりに上手く撮れ、すぐに確認ができる時代だ。それもそれでいい。記録するという面で言えばその方が確実だ。

だからと言ってアナログの良さはあるのだ。
写ルンですはタイムカプセル的だ。



そして彼はなかなか手に入りにくかったりする。コンビニにはあまり置いていない。カメラ屋さんには大体置いている。あと、大きい駅のキオスクなんかには結構置いていたりする。需要があるのだろう。


不自由なものに惹かれることもある。


相変わらず恥ずかしい文章だなあ、まあいいや。


お腹が空いたのでご飯を作ります。

深夜から抜け出せないインスタントラーメンと朝を迎えたコーヒー


不摂生な人間である。

夜更かしの好きな子供だった。年の離れた兄や姉がいたから、という訳ではなくて、単に父が夜型の人間だったことにルーツがある。

末っ子の私を、当時の父はそれはたいそう可愛がっていたように思う。兄と姉が思春期を迎え、唯一親の買い物について行っていたのが、一緒に布団で寝ていたのが、私だったからかもしれない。車でイオン、あ、当時はジャスコ、まで行き、食べたいものを食べさせてくれ(よくフードコートで銀だこを食べた)、なんでも欲しい本は買ってくれた(小学生時代が一番本を読んでいたのではないかとさえ思う、ジャンルは青い鳥文庫とファンタジーもの)。確か兄が「俺にはそんな甘くなかったのに」とちょっと拗ねていた記憶もある。ともかく、父は素直で成績が良く、本をよく読む私のことを贔屓していたのだ。

そんな父は夜にテレビを見るのが好きで、といっても深夜帯にやっているよくあるバラエティではなく、録画しておいた宇宙や遺跡の番組が主力選手だった。よくは理解できていなかったものの、私もそれを楽しんでいた。マヤ文明アステカ文明に興味を惹かれ、自由研究でまとめたことがあるくらいには(一方で母と一緒にビーズで指輪を作ってこれまた提出しているのだからなんだか当時のほうがよっぽど自由であった気がする)。
ちなみに母はというと朝方の人間であるので、すぐ寝てしまっていて、だからもっぱら私と父は二人で起きていたのだった。

それから、父はちょっとふくよかな体型であり(昔はイケメンだったらしい、母の惚気)、だから、というかそれが原因だったのか、夜のテレビタイムのお供になにか軽食でも、ということもしばしばだった。まあ教育には良くないのかもしれないが、私もご相伴に預かることが多かった。

そんな時間が私は大好きであった。夜にいけないこと、「お母さんに内緒のこと」をしている。なんだかそれだけで大人になったようなつもりになったのだ。日付が変わるか変わらないかの時間に、インスタントラーメンを食べる。お母さんのごはんも美味しいけれど、お父さんが作るインスタントラーメンだって、美味しい。

だからか、私は夜食が今でもちょっとだけ特別な気がしている。

父も年をとり、健康に気を使うようになり、一緒に夜食を食べることはなくなった。父と布団で一緒に寝るのはいつの間にやら姉が連れてきて今やうちの一員のロジャー(チワワ)である。
私はというと、相変わらず夜更かしが好きだ。ただ、夜のテレビタイムには録画していたアメトークを見ること。家を抜け出し終電間際の電車に滑り込んだりすること。父は知らないだろう。知っていて知らないふりをしているのかもしれない。

「身長が大きくなったな」と、何度も言われる。いつまでも野菜が嫌いだと思っている。たぶんずっと私は父の前では子供なのだ。



むかしは飲めなかったはずのコーヒーを飲みながら、そんなことを思いました。
徹夜するとおセンチになっちゃってやーね。

おはよう、おやすみなさい。

熱から覚める大学生

私は中1の初期からオタクへの道を邁進した。オタクというか腐女子への道。

今は大学三年生になる。
その当時の同年代の皆々様には心当たりがあると思うが、中1、腐女子になりたての私は「復活」をメインフィールドにしていた。もともと絵を描くことが好きだった私は漫画研究部に入り、同級生に絵を見せつけ、黒歴史を量産させた。中高一貫女子校には止める者などいない。それは加速されるばかりであった。推しの誕生日を祝い、カラオケでキャラソンを熱唱し、本誌の展開に一喜一憂し、二時創作小説で切なさに泣いた。今ではいい思い出である。

彼らをネットで検索しまくっていた時期がもはや懐かしい。私にとって「クフフのフ」「咬み殺す」は死の呪文であり、未だに数字の文字列に彼らの面影を見る。お小遣いをはたいて買ったボンゴレリングは、今も綺麗に箱に保管されている。

その後私の戦場は世界を擬人化するジャンルに移り、ナマモノに手を出しつつ、最終的に忍者の卵を愛でるところに落ち着き、ツイッターの腐垢でそれなりに活動をし、高校を卒業した。

それで何が言いたいかというと、今の私には当時の熱量がない、という話。
確かに今も某イラスト投稿サイトを見、布団で転がる、くらいのことはする。だが、あの頃のように、「描いてみよう」とはならない。腐垢で呟いたのはもう数ヶ月前だったか。毎日六時十分に実況をしていた私はどこへ行ったのか。この違いはどこから来たのか。今も確かに、かつての彼らにも、あの人気ジャンルの六つ子たちにも、胸がときめくのに。

この現象は私にだけ起こったものではないようだった。漫研部長のHにも、ネッ友のSちゃんにも、というか一般論ですらあるようだった。大学生になると、一定の層が二時創作から、ひいてはそのジャンルから離れていくのだ。
その理由を考えた時、思ったのであった。
私の世界は狭かったのだと。

大学生というのはわりとなんでもできる生き物だ。授業を休んでもせいぜい単位を落とすくらいで大して何も起こらないし、アルバイト、サークルに打ち込むも自由であるし、恋愛にうつつを抜かすということも可能だ。夜の街に繰り出すことも、海外に旅行に行くことも、圧倒的にハードルが低くなる。それでいて社会人よりも時間が溢れている。自由度が高すぎるのだ。

私は当たり前のように髪を染め、当たり前のように化粧をし、「普通の女の子」になった。

人間の能力は限られている。稀に「お前いつ寝てんの」ってくらい色々する輩もいるが、普通の人間は思ったより何も出来ないものである。したいことはたくさんあっても手は追いつかない。そうなるとハードルの低い所から跳んでいくのだ。私にとって、「二時創作」は大好きな娯楽だったし、今でも興奮すると早口になってしまうし、オタク根性は染み付いていると思う。そうだけれど、ある意味二時創作は能力が余っていたから、私はそこで力を発揮しようとしたのだと思う。

この流れでロアルド・ダールの名を出すのはとてもははばかられるのだが、「マチルダは小さな大天才」という本がある。超天才児マチルダちゃんは、とても高い能力を持つにもかかわらず、不遇の扱いを受けたりするのだが、そんな横暴な大人達に痛快な仕返しをしたり、マチルダに理解を示す担任のミス・ハニーと親交を深めたりする、個人的に大好きな本だ。

この話の中で、マチルダは途中、超能力を使えるようになる。なんやかんやでまあそれによって問題を解決し、高学年と一緒に勉強をするようになり、元気に暮らすのだが、超能力は失われてしまう。マチルダは「何故私は超能力を使えたのかしら」と疑問を持つ。ミス・ハニーはそれにこう答えるのだ。「あなたは能力が発揮できる場が今までなかった、だからそれが押し込められて超能力として発散されたのではないか」と。

二時創作もそういうものなのではないかと思う。
あの頃の私も井の中の蛙だった。押し込められていた欲望は、有り余る力は、二時創作として力が振るわれた。私は大学に入ってそれなりに忙しく、それなりに楽しい日々を過ごしている。その中で創作しようとすることは、なかなかハードルが高いことなのだ。だから逆に、例えば社会人になって思うようにできず二時創作へ走る人もいるんじゃないかな、とも思う。

なんだかでももったいないから、一度くらいイベントに出たいな、なんて思った。私の恋した彼らは今でもそこにいる。熱が失われても、私は一生オタクで腐女子なのだ。

脳内MV出演しがち論


悪い癖なのだけれど地方出身者と話すと訛りが移ってしまう。

今夏徳島で免許を取った。
というのも、京都より西の地方に行ったことがなかったので、どうせなら遠い場所に行こうと思ったため。あと単に安かったので。

平和的光景

そうなると見事に近畿、中国地方からきた人ばかりになる。関東から来たのはなぜか中国留学生の子だけで、教官も当然徳島の人で、語尾はもれなく「〜やけん」(かわいい)。
私は訛りの環境に晒されることになったのだった。

その前には秋田に行っていたのだけれども、その中でもド農村、に行ったので、それを引きずり私の口調はよく分からんものになって行った。

ともかくとして、人は兎角影響を受けやすい生き物な訳です。少なくとも私はそうなのである(知らんがな)。

アメトークを見れば関西弁がうつり、オタク友達と喋れば早口になり、太宰治を読めば陰鬱になる、ユニゾンスクエアガーデンのシュガビタを聞いては玄関口でくるくると回る(MV参照)。
そう、音楽であってもそれは例外ではない訳で。

人は皆それぞれの人生の主人公だというけど、音楽を聴いている時の私は確実に自分に酔っているし、MVに出演しているし、そんな時に電車が通り過ぎようものなら、風に髪をなびかせ、「今の決まったな」と思っている。間違いない。最優秀主演女優賞受賞。圧倒的勝利。全米が泣いた

問題ははたから見てどうなっているか、ということで。
間違いなく間抜け。
いやそれは良く解釈した場合で確実に夜道でスキップしながらチャットモンチーを口ずさんでいる私は不審者である。SHISHAMOを聞きながら恐ろしく笑顔で階段をリズミカルに降りる行為もおそらく許されない。運動神経ないから多分リズミカルでもない。許せよ。許してくれよ。頼むから。

着実に表舞台の人間ではないので、自分の頭の中くらいは主人公でいさせて欲しいのですが、理性は「客観視」と囁く。

今日も私は理性と欲望の只中にいる。


メロンソーダを飲みたいという欲望に負けがち、さようなら。

日光に行ってきた


まぶしい!!

昨日友人Kと日光に行ってきました。

小学校の修学旅行以来行っていないので、果たして何年ぶりなのか。

紅葉の季節ということもありだいぶ混み合ってました。特に行きの電車。行きの電車。ほぼ満員状態で2時間。
死が迫る。

観光客らしき外国人のやたらと発音の聞き取りやすい(参考書付属のCDみたいな)英語に耳を傾けつつ…しにつつ…辿り着いた後はダラダラしました。都内から2000円くらいで行けちゃうんですね。暇な平日に行きたいものだ。

やたらと風情のあるタバコ屋がすきです、閉まってるけど。字体がかわいいよねえ。

なんだこの、横断するときに旗を掲げる文化なんなのか、使ってる人見ないぞ、なんなんだこれは


喫茶店に二回行きなぜかそして東京に帰り映画を見た。ちゃんと東照宮にいったのでいいんです。日光らしさとは?

牛すじカレーって響きずるくない?


溺れるナイフ菅田将暉小松菜奈つくしかったです。来世は小松菜奈のまつげになる。菅田将暉のまゆげでもいい。




本日の酒。まだ飲めてない。早く飲みたい。


おやすみなさい、昼寝をしすぎてねれません。