七味をかける

日がなごろごろ

身内贔屓と四面楚歌


すごくカクカクしたタイトルになってしまった。
のでクリープハイプの二十九、三十を聞きながらお読み下さい(なんとなくカクカクしてるし)。




SNSの台頭により、私達は属性で武装している感が増した気がする。


もともと区分はあるんだろうけど、好みのものとか、所属しているものとか、をネットで表明しているので、他人にもそれが分かりやすく伝わるようになった。
ツイッターのプロフ欄でスラッシュで列挙する奴がたぶん分かりやすい(JK2/OORer/邦ロック/guiter/believe yourself、みたいなかんじのやつ)。
あとインスタの#だらけなやつ(#cute#cafe#loveとか)とか、ちょっと違うかもしれないけどピクシブのタグ文化もそういうところがあるんじゃないかな。


写真や作品やひいては自分自身が一つの要素で出来ているわけではなく、様々なものによって構成されているということを自覚した上で、ある程度他人にこういうことなんですよ、と示している。
そうすれば「これ好きなんだね」と話題が広がったり、同じ属性であれば仲間意識が芽生えるものだと思う。


ただし一方で貶す、ディスられるという属性列挙もある。
よくあるツイッターネタに「〇〇あるある」を画像で示したものがある。
例えば「量産型女子大生」、とか。
イメージ画像とともに茶髪、くるくる、前髪巻くよくある髪型、女子会ってすぐ言いがち、よく似た服装、等の特徴を並べ、半分馬鹿にしている。
(こんなんだいたい何にでも当てはまる血液型占いとあんまり変わんないのにね、と思いますが、前半の文章でやったのでいう資格はない)



こういったものは同じ文化圏から自虐を含めてリツイートする場合と、全く違う文化圏だからこそディスっている場合がある。
「わかるwww」に「自分はこうではない」「自分は自覚していますよ」という思いを込めている(んじゃないかなたぶん)。


ネット上にいればそういうネタに同調しても多数派であるし、ダメージを負うことは非常に少ない。
これが現実はどうかというと、もし知り合いでそういう人がいたとしても、まず直接口に出すことはないだろう。オブラートに包むって大事。
これが口をついて出る場合は現実でも多数派であることがはっきりしている時だけである。
マイノリティになることは体力のいることで、同意してマジョリティになることの方が圧倒的に楽だから。


声の大きい人の意見が通ってしまうのは当然といえば当然で、みんなどこかに属したいと思っていて、仲間はずれにはされたくない。
そして同調圧力に屈したりする。
正義の反対は別の正義(野原ひろし?)であって、不快なことはいつでもあるんだろうな。


当事者なところがあるからそう思うのであって、例えばだけど私が政治のことには全く興味がないのは自分に関係ないことだと思っているからだろう。てへへ。






道徳でよく教えている「相手の気持ちになって考えてみよう」、すごく難しいことですね。